旧来、北近江の領主で名門の家柄である京極家だけに、ぞんざいには扱えないといいたいのだ。余談だが、信長によって滅ぼされた、浅井長政のめいにあたる。

「あいや、さらにもうお一人」あつかいに気をつけなければならない側室がいたと。

故信長の弟である織田信包の娘、姫路殿と呼称された「於市様」である。なんといっても、主家筋にあたるからだ。

だが幸いなことに、於市の生母が、身分のいやしい秀吉をきらい、実家に引きとっていたのである。

「なるほど、さすがの名軍師でもしらぬこともあるということか。案ずる必要はない。それに、竜子さまはいまだ寧々様のもとにおわし、殿とはいちども肌をあわせてはおられぬ」

しらぬこと云々は嫌味ではなく、逆にそれほどまでに官兵衛の知謀をかっていた証左であり、ある意味、ほめ言葉のつもりだった。

 だが官兵衛は刹那、いやな顔をした。しらぬことがあるとの一言に、自尊心をきずつけられたからだ。ほとんど表情をかえぬかれだが、未知と指摘されるのは、それが武門にかかわること(この儀はそうではないが)や身辺にちかいことであればよけい、不興顔になってしまうのだった。

元服まえからの癖(へき)で、生涯なおることはなかった。ひとつおおきく息を吸ったのち、「それはようございました」もとの無表情でいった。

_それにしても_と、主君とはちがい、あまり色を好まないこのおとこたちは口にこそださなかったが、同じことをおもった。それは、故秀吉の性癖(性におけるクセ、ではない)についてであった。

ちなみにふたりとも、側室をもたなかったと、史料にある。

さて、その好色のあいてだが、出自がいやしいとのコンプレックスからだろうか。

「高貴な出の姫君を、お好みになる」との癖(へき)だ。たしかに、側室たちの大半が大名など名家(とされる)の息女だった。

反例として、家康がいる。家柄や容姿などでは触手はのびず、多産型の、丈夫な女子(おなご)をそばにおいた。徳川家繁栄のための一環として。

そういえばナポレオン1世は、石女(うばずめ)(子をもうけられない女性にたいする差別用語)のジョセフィーヌと離縁し、出産可能なわかき女性と再婚している。

古今東西、英雄、色を好むと云々。

ところでさすがに、この戦場に側室をつれてきてはなかった。いくら好色とはいえ、こんかいも、山崎の合戦に比肩するほどの重要な戦だったからだ。

「されば、側女に先んじての問題は、小姓である」

史上、覇王に帰属をした大名のなかには、叛心のないことをしめすために、わが子を人質として差しだし、主はそれを小姓として傍におき、ときには夜や戦場での伽のあいてとしたのである。

余談だが、“小姓との伽”とはこのばあい、男色としての性交をさす。信長における森蘭丸(成利)をおもいうかべればよい。また、前田利家も年少期には小姓としてつかえ、伽のあいてをした。

このことが、利家にとっては生涯の自慢であった。戦国のそのころは、男色を恥辱とする意識が、まったくなかったとうかがえる逸話である。