問題はしかし、隆景の兄である元春が領主の吉川家、およびかれらのおいが継いだ本家毛利にたいして、官兵衛はきわめて受けがわるいことだ。

戦国の世ゆえに、戦火をまじえた敵同士ということに、さほどの問題はない。

としても、秀吉が“中国大がえし”の直前、ダマシの和睦をしたことに両家は激憤し、いまも許していないという。

毛利家の忠臣だった清水宗治を、切腹させた咎の一端をかれらは自責しつつ、思いだすたび、はらわたが煮えくりかえる寝つきのわるさだろうからだ。

よって官兵衛が苦衷は、かれらの酒を美味にするだけであろう。いや、死は格好の弔いと、宴でももうけるにちがいない。

以上の理由で、_羽柴家とは一蓮托生と断じざるをえない!_これが、結論であった。

よっての唯一の道。

それは、羽柴家の最悪をどうやって乗りきるか、結局はそこに行きついたのだ。官兵衛には、全身全霊、知力を集中する、それしか方途はなかったのである。

まずは秀長も想定した、“秀吉隠居と秀勝への相続”を提案し、秀長の意見をいれ、不可としたのである。

それから腕をくむ(秀長は主君ではないゆえ)と、しばし瞑目したのだった。

はたして口にすべきか?この策しかないとはおもうが、いったん陳述してしまえば、それを引っ込めることなどできない、からである。

それほどに重大かつ、前代未聞であった。

さらには官兵衛自身、前言をかんたんに撤回する安直を恥とする、じぶんの性格を知悉している。ゆえに、この期におよんでもまだ迷っていたのだ。

否、迷わざるをえないほどの驚天動地の賭け。それが、頭のなかで構築されつつあったからだ。

そのようすを見つめながら、秀長はたぎる焦燥をありったけの理性でおさえて、じっと待っていた。

やがて軍師は、おおきく長い息をもらした。それは、

奇抜にすぎる案を提示するしかないと、ようやく決めた覚悟のあらわれであった。同時に、諦めをもふくんでいたのである。

なるようになれと!たしかに、闇夜の断崖から深さのわからない川へ飛びこむ、そんな開き直りであった。

いかに人智をつくしても、しょせん、なるようにしかならないとの経験知で。

それにしても、あまりの大胆な発想に、かんがえついた当人さえ一時、息がとまりそうになった。

くどいが、常識人ならば途中で、その提案を制止し、却下せざるをえないような、困難で途方もない賭けだったからだ。

しかし官兵衛もだが秀長も、このときすでに常識とは、スッパリと縁をきっていた。状況自体、常識が通用する領域から、とほうもなく隔絶していたのである。

ただし、運がいいことにかれらはすでに、じつは貴重な経験をしていたのだった。

絶対君主、信長の突然の死である。これによりえた計りしれない体験を。おかげで、よい意味での開き直りができたのである。

“中国大返し”がこれからの、一大窮地からの脱出にたいする隠れた自信となり、背中をおしてくれていたことまでには、智者といえどもふたりは気づいていなかったが。

いずれにせよ、失敗すれば世の笑いもの、ではすまない。人心は悉(ことごと)くはなれ、孤立無援になることは必定だ。

いや、そればかりではない。

力が衰えたとみられたら、徳川・後北条が盟約をむすび襲いかかってくることもじゅうぶんにありうる。近年、徳川と後北条は、政略結婚により姻戚関係をむすんでいた。

また家康自体、織田信長にたいし、根ぶかい怨みをいだいていても不思議ではない。武田勝頼との密約疑惑をもたれた嫡男信康と正妻築山を、信長の厳命により死なせているからだ。

その恨みを信長の子息秀勝で、はらそうとかんがえているとしても、まんざらの話ではない。

 その家康は、上杉謙信や武田信玄にはとおくおよばないが、それでも、野戦の軍のトップとしての天賦にもめぐまれている。かれに攻められれば、羽柴家が滅ぼされることもじゅうぶんにありうる。

懐柔謀略にすぐれた官兵衛と秀長といえども、本営が落ち目では、敵を味方にひきいれることはむずかしい。ぎゃくに、味方の寝返りこそ、その可能性が高いというものだ。

 目のまえの敵の柴田勝家主従は、すぐにでも殲滅できる。

しかしそのあとは、じぶんたちかもしれないのだ。

_されば…、いや、だからこそやるしかない!_と。これが、名軍師の決断であった。そしてやる以上は、成功させる以外に、道はないのだと。

「実の御子がないわが殿は、万が一のときのためにと、影武者をつくっておられます」

淀君とのあいだの第一子鶴松(三歳で死去)はもちろんのこと、のちの豊臣秀頼も、あたりまえだがまだ産まれていない。いやこの時期、茶々(のちの淀)ともまだあったことすらないのである。

「おお、そうであったな」秀長は焦燥をかくし平静をよそおいつつ、はたと膝をうってみせた。じつは先刻、おもいついていたことなれど、いま気がついたとばかり大仰に首肯してみせたのである。

人誑(たら)しの天才につかえつづけた秀長だからこそできた、名演技であった。

 しかしながら官兵衛とて、その人誑しのそばで八年があいだ、参謀としてまた外交官として、さらには一軍の将として奮闘してきた経歴をもつ。

でこのふたり、参謀としてだけでも、敵を誑しこむ謀略や味方の士気をあげる工作を、共同でねりあげてきた仲である。

_さすがに兄弟じゃ、ウソのつきどころも、嘘をついたときのクセまでも似てござる_どれほどの名演技でもそれを、しょせんは芝居とみやぶることのできる批評家のきびしい眼力を、軍師はもっていた。

官兵衛がもしこのていどの眼力すらもない参謀であったならば、手紙にて秀吉が、「(官兵衛を)弟の小一郎(秀長)のように信頼しきっている」旨、しるしたりはしなかったであろう。

これぞやり口、とばかりの秀吉一流の、人誑しのための修飾ではある。しかし素直にうけとると、これ以上書きようのない賞賛でもあった。