歴史的にも、朝鮮出兵にその因があり、文治派と武断派だがさながら水と油、家康の掌のうえで闘争が勃発したのだった。

まさに歴史が、家康に味方したのである。

くどいようだが、豊臣家内の対立なくして、家康の老獪さは、威力を発揮できなかったし、武断派を味方に引きいれることもできなかったにちがいない。

くわえて、関が原前夜という条件下だったからこそ、高台院(秀吉の正妻ねね)は「家康に味方せよ」と、豊臣恩顧の諸大名(ことに、かのじょにとっても子飼いである武断派)に指示をだしたと。これは通説によるが。

動機だが、おんなだからこその性か?夫の子を二度も宿した“淀(第一子解任以降のよび名)”への嫉妬であり憎悪である。単純だが、概してこんなものなのだろう。

むろん、したり顔の家康。愚かのおかげで、敵方のはずのかのじょの懐柔にも成功したのである。

豊臣家創業の立役者が、引導をわたすにひと役をかったというのは、それにしても、なんという皮肉だろうか。

以上ながながとだったが、いずれにしろ、秀長の死において、徳川方の毒殺説はこれを否定できないのである。

さて、白日夢の本題にはなしをもどすと、

秀吉をうしなったその間隙を敵にあたえるどころか、秀長ならばかえって、”弔い合戦”とばかりに、府中城を短期日でうち破るであろう。どうかんがえても利家・利長父子にとって、戦える相手ではなかった。

 ただ幸い、想定外の事故を敵方はまだしらないでいる。敵方の耳にもとどろく鉄砲をもちいていなかったことが、不幸中の幸いであった。

 利家は狼狽しながらも、一国の主、歴戦の勇士であった。善後策をさぐりだそうとの思慮をうしなわなかったのである。

 すぐさま、秀吉の唯一の弟であり補佐官の羽柴小一郎秀長のもとに、重臣奥村永福を遣わすことにした。

利家よりあたえられた命がけの特命をむねに、永福は特別の装束に着替えたのである。もとより、”大変”ではすまない役をおおせつかったのだ。かけ値なしに、前田家の存亡がかかっているのである。

いっぽう秀長は、本陣にて兄者の帰陣をまっていた。前田利家調略の首尾について、その知らせを黙然とまっていたのだ。

 そんな秀長のまえに遣いとして、丁重な挨拶をすませた永福はまず、秀長に侍(はべ)る近習に、腰の大小をあずけたいと申しでた。

主は帰陣せず、かわりに敵方の重臣が来訪したことで、さすがの秀長は、ことの重大さをあるていどは察知していたのだった。で、側近の藤堂高虎に、ある要請を手短に耳打ちしたのである。

そのうえで、まずは推移をみるため、遣いのおもうがままにさせ、ついで、申すがままを黙ってきくことにした。最悪の事態もありうると事前に推しはかっていたからこそ、聡明なかれはここ一番、さきを急ぐことは愚策と心得たのだ。

単身にての敵方懐柔を、弟としてじつは毎回制止してきたのだが、兄はいちどとして諫言を聞きいれなかった。

それゆえ当然、“死”という最悪も、けっして不測の事態とはかんがえていなかった。いやそれいぜんに、戦国の世である。戦における兄の死を、したくはないが想定せざるをえないと…、兄秀吉につかえたその刹那から、覚悟をきめた秀長であった。

春たけなわの草土に両手をつくと、「恐れいりまするが、まずは、お人払いを願わしゅう存じます」身に、なにも帯びていないことは周知のはずと。

「あいわかった」奥村となのった前田家重臣の所作を観察していた秀長は、いかにも鷹揚に、しかしすぐさま、はべっていた者どもに眼で合図をした。

それをうけ、一礼した高虎や青木一矩などの重臣や近習たち全員が、部屋から退出していった。

この一連を、平伏のまま耳で確認したのち、「かたじけのう存じます」そう礼をのべ、おもむろに立ちあがると、「ご無礼つかまつる」いうなり奥村永福は、平装を脱ぎすてたのだった。

出てきたのは、白装束であった。覚悟の、死に装束である。そして再度の平伏をしたのだった。三間ほどの距離をとっていた。

秀長は「そのいでたち……」と、内心仰天するおもいだった。が、平静をよそおいつつ「して、内密のはなしとは、わが主、秀吉のことであろう」そう、かろうじて発した。しかしつぎの「かくさず申してみよ」との言葉は、緊張のあまりかすれてしまった。

さらなる「よもや…」は、不吉を予感させる禁句だと、それが現実になるのをおそれ、胸の奥でとどめたのである。それでも、

無念にもこのとき、主の死をつよく否定したくとも、できない秀長であった。夢を追いもとめる兄とちがい、現実主義者だったからだ。

ただ一縷の望みも、もたなかったわけではない。それで、頭のなかにいすわる不吉な予感を、ふり払うべくつとめたのも事実であった。

秀吉という存在はたんに、兄とか羽柴家の守護者や統率者などの規模ではない。もはや、統一により戦乱から日の本をすくう救世主と、すくなくともかれはそう信じていたからだ。

武人となって二十余年、民と国を安んじることが百姓出の秀長にとっては、いまや、最大の誓願であった。

「まことにもって、申しわけもござりませぬ。お詫びのしるしとしては足りませぬが、主、利家は腹をきる覚悟でございます」と頭(こうべ)をさげたまま、まずはふかく陳謝し、どんなに不都合な事実をもつつみかくさずと決め、ことの顛末をはなしはじめた。

へたな隠しだてや些細なウソは、かえって心証をわるくすると知悉していたからだ。しかし、城兵による秀吉殺害の動機にまでは、言及できなかった。