さて、で十六世紀末の秀吉。ちなみにもし、大陸との全面戦争ともなれば長期戦を覚悟しなければならない。それは、海をへだてての兵站(兵・食料・武器などの供給路)に窮することをいみすると、信長家臣として兵站構築と維持のたいへんさを体で知りつくし、またこのころは、文治にたけた三成を擁している秀吉がかんがえないはずもない。

だからわかるのだ、中国の歴史、とくに中華思想と朝貢外交(周辺国君主が中国皇帝に貢物をさしだし、その返礼をうけつつ、周辺国は中国の傘下にくみこまれ、安全を担保される)に無知で、それは忙殺のあまり(信長にこき使われ、そのあとは天下取りの意)、これらを学ぶ余裕も必要性も、これまでの人生にはなかったからである。

よって外征は失敗する、当然の帰結として。敵をしらずして、勝てるはずがない。

それにしても、文禄。慶長の役の真の目的だが、歴史学者にとってもナゾのままなのである。

いずれにしろこれらの史実と、それによりみちびかれた推論(家康による、天下転覆のための秘術としての秀長毒殺や豊家恩顧家臣団の分断秘技)から、いわば括(くく)っての、天下統一により即天下泰平となったというような異論は、これにて一掃できたとおもえるのだが。