仰向けに倒れた変死体だったが、行政解剖はされなかった。監察医制度のない府下だから設備的・人的に簡単ではない、が一つ目の理由。公費削減のため、が二つ目。しかしいちばんは、検視担当官が事故死と見立てたからだ。それは現場に争った形跡も着衣の乱れもなく、強く押されてできる圧迫痕もなかった由。また、指紋から断定された女性の荷物や傘が階段に散乱していた等による。両手がふさがり手すりを掴めなかったとみたのだ。
当該階段や廊下にはPタイルが貼られていた。誰かの傘や荷物等から滴り落ちたのか、激しく降っていた雨の滴とPタイルのせいで階段はたしかに滑りやすくなっていた。しかも二段ぶん、滑り止めがとれてしまっていたのだ。となると、
事故の可能性大だが、それでも検視と並行して現場での検証も行われた。検視の見立て違いということもあるうる。上の判断で、念のため犯罪性も疑っての検証となったのだ。
捜査員たちは、犯罪行為があったとして、想定できるケースがあげてみた。
1殺意の顕著な犯人が待ち伏せをし、不意打ちで階段から突き落とした場合。だが、今回のは当たらない。いきなりの犯行ということはそれまでに二者間でそれ相応のトラブルがあり、由って加害者の姿を確認した被害者は、殺意までは察知しなくても何らかの危険を感じたに違いない。非力な女性ならなおさらである。具体的にはこうだ。階段を上っていた被害者が、玄関前で待ち伏せしていたその加害者に気づかないはずがない。すぐさま危機を察知し逃げようとする。その上体を押され転落した、となる。だが、それだとうつ伏せ状態になってしまう。しかも体に圧迫痕はなかった。ところで被害者に対する加害者、状況からまだ手が届かない距離にあったはずだ。道具を使えば押し倒しは可能だがそれでは圧迫痕を残す。つまり上記の設定だと、死体の状態を説明できなくなるのだ。
2百歩譲って凶暴な面相を隠し、被害者は加害者を認知できなかったとしよう。だが玄関前で佇んでいる人物を初めて視線が捉えた刹那、被害者はまだ階段を上る途中だったわけで、不審者が自分の部屋の前にいれば、若き女性ならなおさら不審に思ったはず。歩を停めて誰何するだろうし、返事がなければ警戒し逃げる体勢を取ったはずだ。上記同様、この時点では、加害者が手を伸ばして届く距離に被害者はまだいない。水平距離もだが、高低差にしても1メートル以上離れているからだ。こう、情景を推測すれば一目瞭然、逃げようと背を向けていたであろう女性が仰向けで転落するなどありえないのである。
ところで玄関前に真新しいタバコの吸殻が落ちていれば、もしくは傘を立て掛けたことでできる小さな水溜りが残っていれば、若くとび切り美しい彼女を待ち伏せする変質者がいたとも考えられるが、その可能性はないとした。吸殻はおろか、ガムやペットボトル等の遺留品もなく、ペットボトルを置いた痕跡(結露が作るリング)等もなかったからだ。
ちなみに、彼女の部屋の玄関前と一階までの階段や踊り場だけが明らかにきれいだったのだが、それは彼女が掃除していたからであろう。逆に、他の階段や廊下等に綿埃が転がっていたのは、大家が、管理人もしくは清掃員を雇っていないからに違いない。その二階の廊下だが、少量の滴は落ちていても、人が佇むことによってできる量の水滴はなかったのである。あれば、階段からは死角となる廊下に犯人が潜んでいたとも考えられたのだが。
3犯人の殺意が皆無か微小だった場合。たとえば元カレかストーカーが待ち伏せしていて結果揉み合いになり、はずみで転落したケースである。しかしながら、これだと何らかの痕跡を残したはずだ。一つは言い争う声だが、今回、それを聞いた住人はいなかった。さらにだ、揉み合った場合にできやすい概ね三種類の痕跡。それが、あるかないかだ。
①着衣に、破損やボタンの損失などがほとんどなかったという状況。
②Pタイル面にも痕跡は特になかった。争った場合、足を踏ん張る等により靴底と床面に強い摩擦が発生。結果、広義で“げそ痕”とも呼ばれる靴痕、今回のような若い女性のケースだとヒールの痕跡を残すことが多くみられる。が、それもなかった。
③手指の爪に、襲撃者の皮膚片や相手の服を掴んだときの糸片もなかった。
つまり、争ったことを示す形跡は皆無だったということだ。
ところで捜査員のなかには、争った痕跡がなかったのは両手が傘やバッグ等の荷物によってふさがれていたからでは、との見解を示す者もいた。
だが、はたしてそうだろうか?身の危急の場合、荷物を放りだしてでも防御するのではないか、とも。加えての否定意見。襲われた瞬間、裂帛(れっぱく)の声をあげたにちがいない、だ。
ゆえに、検視の所見もそうだったように、誤って転倒した可能性が極めて大きかった。
死体と散乱していた所持品の状況から憶測し、肩ではなく左手にショルダーバッグを、利き手である右手(左手首の腕時計から判断)に雨に濡れた折りたたみ傘(急な雨に遭い、バッグから出したものであろう)とコンビニのレジ袋を持っていたようである。中は一人前のコンビニ弁当だった。女性は、手すりが左側に設備されている濡れた階段を上っていて足が滑り体のバランスを崩した時、不運にもその段の滑り止めははがれていた。危うい体勢を立て直すべく手すりを掴もうとしたが、左手はふさがっていたのだ。一瞬のことであり、しかも利き手ではないぶんバッグを手放すという動作が遅れたのではないか。
靴は、ヒール高約5センチのパンプスだった。ベルトや留め金がないせいか、左足の方だけ脱げていた。左足裏に踏ん張ろうとする負荷が掛かったために脱げたのだとすると、左足が階段に着いたときに滑った可能性が高い。利き足でなかった場合、踏ん張る力が少し弱かったかもしれない。そして不運にも、右足はそのとき宙に浮いていたのではないか。
運の悪さはときに重なるものだと捜査員は思った。仮にヒール5センチのパンプスではなくスニーカーだったなら滑らなかったのでは。あるいは、もし朝から雨模様だったならば、滑りにくい靴を履いて出掛けたかもしれなかった。
以上により、捜査員たちは犯罪の可能性はまずないとみた。それでも念のため地取りも行なった。駅からの帰路、コンビニに寄ったとみて店の防犯カメラをチェックしたところ、彼女が映っていた。それで不審者の有無を確認したが、そんな形跡はなかった。映像に刻まれた時刻は十時三十五分。女性の足でマンションまで五分。おかげで、死亡推定時刻は午後十時四十分で固まったのである。住人が聞いた転落時の叫びの時刻とも符合していた。
にもかかわらず捜査員たちは困惑してしまった。なぜならその声や音を聞いた住人が、耳にした時点では転落に由った声や音とは認識していなかったからだ。人が階段から転落したというのにだ。捜査員は、それなりの声や音、振動を感知したはずだと念を押した。
「酒飲んでたしなぁ。それに半分寝かかってたし」男は首筋をポリポリと掻いた。
言いわけがましいと感じさせた口、なるほど酒臭かった。
「けど感じひんかったんやない。まさか、あれが転落音やと思て聞いてなかったからわからんかっただけや。聴き分けるテストならその気で耳澄ましたけどな。それに何ちゅうても、玄関前の大通りは高速に通じてるさかい、夜遅おても大型トラックがしょっちゅう通りよんねん、それも毎晩やで。そやさかい、騒音と振動に慣れてしもたんや。二つは違う種類の音と振動やし似てへんて言いたそうな顔やな。なら聞くけど、転落音やとあんたらそれを聞いた瞬間に確信できるんか?そやろ、できひんやろ。それにワシ、うつらうつらしてたしなぁ。そやのに、わざわざ何の音か確認しに部屋から出ていくなんて無理や。ごめんな、まんが悪かったちゅうこっちゃ。けどええ加減なこと言うよりましやろ」法律違反をしたわけではもちろんない。道義上も、非難されないかもしれない。ただし、酔っていたとはいえ同情の欠片もみせなかったこの人は、他人の死にあまりに鈍感といえた。
一番近くで聞いた人間がこれだ。離れた部屋の住人は、なおさら当てにならなかった。
「それでは転落音の直後、逃げるようにして階段を駈け去る足音は聞きませんでしたか」
男は、首を傾げるだけだった。
捜査員は勤務先にも当たった。大阪市北区梅田にある、食事を提供する二十四時間営業のチェーン店で、午後五時から九時半までのパート勤務であった。
定時に着替え、通勤帰路時間三十分弱。遅くとも十時すぎには帰宅しているはずだった。それが当夜は、帰途に一時間以上かかったわけだが、それは電車の二十五分遅延が原因であった。約二時間続いた激しい雷雨がダイヤを乱したわけだが、時間経過に鑑み、コンビニに寄ったことを除けば、勤務先からまっすぐ帰ったとみていい。どこかの店で酒類を飲んだ形跡はないということだ。それに雷雨の中、若い女性がまさか、自販機で“発泡酒”でもあるまいし、ならば飲酒(薬物をも含む)による転落とは考えにくいではないか。
捜査員は、彼女のもうひとつの勤務先、午前十時半から午後二時半までの別の飲食店にも当たってみた。結果、
両勤務先において、勤務態度は真面目でトラブルを起こすようなタイプではなかったと異口同音。しかし、どこか翳(かげ)があるような暗い感じで、人を避けているようだったとも。
それぞれにおける男性アルバイター数人が各人機会を狙って仲良くなろうと近づいても、会話として成立しなかったと述べた。ことに、自分のことに関しほとんど語らなかったというのだ。嫌われているわけではないが、周りからは浮いた存在だったらしい。
同僚のなかには興味を持って彼女の異性関係について尋ねた女性もいたが、意味不明に首を横に振るだけだったと。「触れてほしくないんやな感じた」と同僚は述べた。触れてほしくないという意思表示だったとすると、元カレやストーカーに悩んでいた可能性もある。
ちなみにこの女性、矢野は失念していたが菅野拓子という名前であった。
さて、ここで、死体発見当夜に時間を戻すとしよう。
男女各一名の捜査員は念のため、家の中も調べたのだった。若い女性にしては、写真を収めたアルバムはなかった。パソコンにも携帯にも写真を取り込んでいなかった。女性捜査員が写真を捜したのは、そこに男とのトゥーショットを見つけ出すためだったのだが。
書棚にも抽斗(ひきだし)にも日記帳はなかった。だがパソコンにブログが残されていた。ただし公開する目的のブログではなく、単なる記録(ログ)として使っている純粋な日記であった。
読み始めた女性捜査員。知りたいのは恋人や元カレの存在だった。しかし、恋愛に悩む若き女性を髣髴させる記述は全くなかった。ただ慮外だったのが、“自分は幸せになってはいけない”と彼女が思っていたことだ。曰く、【私には資格がない】【値しない】さらには、【身も心も血で汚れた私だから、一生かけて贖(あがな)わなければならない】等々の記載がそれだった。【血で汚れた…】は何かの比喩だろうか。直截にとれば犯罪者となってしまうが。
しかし後者の解釈は短絡的だと思い、とりあえず読み進んだ。ところが最後近く唐突に、【好意を寄せられること自体迷惑。というより何だか怖い。たとえ社会的地位や経済力があったとしても】との記述にぶち当たったのである。具体的事実を記したものか、あるいはこれからの事態を予測してのことなのか?
結局はそれを、文脈からも地取りからも掴めなかったのを、捜査員は残念がった。
男性捜査員はまず洗面所に向かった。歯ブラシは一人分のみ。洗面所はきれいに掃除されていた。彼女のと思われる黒髪が一本、マットの裏に付着していただけだった。ブラシに、短髪や染めた髪の毛がまとわってもいない。
それからトイレの便座だが、ふたがなされていた。洗濯機の中、そしてタンスにも、男物の下着はなかった。その他食器等、どこを調べても男っ気は一切なかったのである。
翌朝のこと、遺体確認のために兵庫県豊岡市からやって来た両親にも異性の存在について尋ねてみた。
しかし弱々しい声で全く知らないとのみ。悲痛を懸命に堪え、そして忍んでいる両親の、ことに母親の泣き腫らした瞼が痛々しかった。
結局、男の確たる存在どころか、陽炎(かげろう)のような不確実すらも見出せなかったのである。
翌日、事故死で処理された。殺人事件として捜査するには、それを匂わせる客観的事実が不足だと、総合的にみてそう判断が下されたのである。
「今聞いてみて、改めて思うことやけど、ほんまに事故かなぁ」親父さんがポツリ洩らした。「いずれにしろ、親御さんはたまらんやろうなぁ」憐憫(れんびん)の情がこもっていた。。
「けど…、殺人やったとしたらもっと気の毒やわ」元義母は涙ぐみ、小さくすすりあげた。
「もちろんそうやが、もし殺人ならせめても、犯人が捕まらんと…」娘ひとりの、しかも病死ですらこれほどな悲嘆なのにとの実感。ゆえに、他人事とも思えず、つい目頭を押さえたのだった。愛娘の命日だから感傷的になっているのでも、どうやらないらしい。
あえていえば、事故とは思えない親父なりの憶測と”勘”が働いているからだった。
大切な人を失う辛さを知悉する矢野も、二人の会話を聞き、沈痛な表情になった。
しこうして、三人は押し黙ってしまった。
いかばかりの時間が流れただろうか。「事故を疑う理由やけど、ないことはないんや」徐に、親父さんが訥々(とつとつ)たる口調で自論を展開し始めた。「若い女性が、いつもより三十分近く遅うなった夜分に帰宅した。それも防犯カメラが設置されていないマンションにやで。用心しながら、一段一段階段を上るんとちゃうやろか。ことによると変な奴がおるかもしれん、そう、いつもより神経を研ぎ澄まし気ぃつけて上ったと、僕はそう思うで。というのも、近頃は何かと物騒や。実際いろいろと事件が起こってるさかいな。だとしたら、いくら階段が濡れてたとはいえ転落するかな、よほどに不注意な女性でもない限り」
素人なれど一理あり!じつは矢野も、疑惑の人影を同様の推測のなかにみたのだった。
「それにしても若いのに何で正社員やなくパートやったんやろう。今日(きょう)日(び)、確かに正社員は狭き門やけど」経済的にも大変やったやろうと、いずれにしろ気の毒に思ったのである。
彼には、親父さんの想いが痛いほどにわかった。まして矢野一彦は、それを天職に!と誓ったデカだ。もし殺人ならば、犯人を野放しにすることなどできようはずがない。
とはいうものの、組織のなかで勝手な捜査はできない。それが現実なのだ。しかし…。
やがて矢野は、いつもながらの親父さんの直感力にあらためて恐れ入ることとなる。
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