さて、その人物についての余談である。
秀吉亡きあとだが、秀長が十七世紀をむかえてなお健在であったならば(仮説でごめんなさい)、家康に天下を盗られる下手はしなかったであろうと。
大坂方として、つけいる隙をあたえなかったにちがいないからだ。具体的には、秀次切腹、外征、豊臣家臣団の分裂などを、その事態のまえにて惹起させなかっただろうと。
というのも、兄秀吉からの信頼は絶大で、そのぶん豊家崩壊につながる暴走を、食いとめたにちがいない。絶対権力者の兄にむけても、かれはそういう諫言や、制御あるいは制止のできる人物だったのだ。
智将でしかも勇将のうえ、温厚で人情味にもあふれているから、徳望の篤さは生半(なまなか)ではないのである。まさに、豊臣家の大黒柱といえよう。
となると、巷間でのウワサ…、ズバリ、「天下奪取をはばむ邪魔者は、だれびとたりとも消せ!」が、その真実味を、俄然おびてくるではないか。
つよい動機をもつ家康らによる術計深謀(考えぬいたはかりごとや策略)の行きつくさきは、はやいに越したことはない秀長排除論、であった。
で、その具体策におよんだ結果、毒殺で決したであろう。文献による病状をひも解くと、ヒ素が原因、をうたがえるからだ。
というのも史実、兄とおなじく強壮で、約三十年という長きにわたって常在戦場の気概もさかんであった。小田原城攻めより以前においては、病気で参戦できないということもなかった。
そんな戦国武将そのもののかれが、激務と加齢のせいか体調をこわした。それは生身だからあることなのだが、なぜか、やがて病床に伏すとしだいに悪化。で一年ののち、五十一歳で泉下の客となったのである。
ちなみにほかにも家康の命で、毒をもられた?…あくまでも可能性のある武将はすくなくない。加藤清正、黒田官兵衛、前田利家、真田昌幸(幸村=信繁の父)、浅野幸長などがそうだ。
家康からみて、敵(豊臣家)に与(くみ)するとの疑惑をつよくする(じじつ、秀頼に味方した)武将たちである。だから毒殺されたのではないかと逆説的に。
だとしてつぎは、いわゆる凶器としての有無だ。
そこで、存在をつよくうたがわせる事実がある。健康志向だった家康の趣味が、凶器を示唆しているということだ。薬草をつかい漢方薬を製造および調合するという作業を好み、日課ともしていた。よってその手(毒についても)の知識は現代での薬学博士並み、いたって豊富だったのである。
さて、推量はここからで、
体内に蓄積していく性質のヒ素をごく少量、秀長に、月日をかけて飲ませつづければそれでよい。
やがては発症し、ついには内臓疾患などにより、かれは、この世のひとではなくなくはずだ。
しかもこのやり方だと、(ボクは、犯人だと確信する)家康の、悪辣な意図がおもてには出ないままなので、病死あつかいとなる。いわゆる、完全犯罪の成立だ。
そうはさせじと備うるに、ではないが、戦国武将だからとうぜん、毒見役をおいていた。
しかしながら即効性の毒物、たとえばトリカブトの毒やフグ毒混入を感知する役目(最悪、死をもって役を果たすが、まさにそのひとの使命)であるために、秀長は、けっきょく毒殺されてしまうことと。
ちなみに、防衛を目的とする毒見役設置の効用について。
年齢や体格が秀長といっしょの人物を一人だけ据え、そのおとこに、主とおなじ量を毎回食べさせてはじめて、かれも発症するであろう、おそらく。
つまりはこの条件をみたすことによって、うまくいけば毒をもられていると知見でき、最良は、主従ともに死をまぬがれられる。しかしながら最悪は、死因を毒と判定できる効用、でしかない程度のものなのだ。
よって、微量のヒ素を連続で服用させる手だが、家康にはきわめて有利で、有益な毒殺法となろう。
つぎにすすむ。ではどうやって混入させたか?である。