1985年八月二十五日の昼すぎ、人の姿がまばらになった学習室にて、おもわず漏らした「くっそぅ!」の一言は、じぶんでも魂消(たまげ)るほどにおおきく、
図書館をあとにしての家路、漕ぐペダルが、やけにおもかった。
はからずも舐めてしまった苦汁という敗北感に食欲はうせ、風呂にはいる気にもならなかった。
しかしながら、母の手前そうもいかず、夕食はそこそこに、風呂も格好だけですませたのである。萎えた、みじめな肩で、二階にあがりかけたボクは、
洗いものを終えたばかりの、ふりかえった心配げなその眉に、
「暑かったし、きょうは疲れたから」とだけつたえ、自室に引っこむなりベッドに、力なく倒れこんでしまったのだった。
嗚呼とため息をついては、あれこれ不成功の因を悶々かんがえ、鬱々頭をかかえこんでは、唇をかんだ。
まるで暗中、手さぐりで四方八方をうかがうに、つまり答えを求むるに、なんの感触もえられずの体(てい)。換言すれば、夢のなかにあらわれた蜃気楼を、つかもうとする様だった。
だからこそ、ただただ虚しさだけが…、
いつの間にかの涙が、耳を濡らしていた。
学校でならうことには答えがあるだけに、こんなのは初めてだったのだ。
あとで聞いたはなしによると、ボクのふさぎようを、両親はいたく心配したらしく、母にせかされた父は、よってドアをノックし、「大丈夫か」とたずねた、とのこと。
が、ボクはなぜか、このくだりを記憶していない。
「うん、ちょっと疲れただけやし、寝たらなおるよ、きっと」に、
階下におりての「もう寝てたわ」とウソを、とくにいまだデリケートな妻を安心させ、守り、いたわりたくてそう言った、らしい。
いっぽうボクはというと、母の身におきていた驚くべき事実を、夏休みのおわる二日前にしらされ、そのデリケートな内容に涙がながれたこと、いまも忘れることはできない。
さて、でもって酔っていた父、息子にたいし肚で、“そろそろ思春期やし、初恋やら、それにおとこの生理もいろいろあるしな。母さんにはわからんやろうけど”と、二人だけのときに、後日ぽろっと。
邪推だったが、父のおおらかな性格が、涙目のボクにとってはケガの功名をもたらしたのかも。
おかげで、そっとはしてもらえた。
だが、それがよかったのかとなると、今でははたして?である。
ま、それはいいとして、このときはぽつり。とにかく独りで暗夜を明かりもなくすすむ心境、出口のみえない不安、というより、いったい、出口そのものが存在するのかとの怯えややり場のない憤懣、それらをどうすることもできなかったのだ。
_このあと、なにをどうすればええんや_
これ、生来の性格によったのであろう。
おもえば大げさなのだが、進退きわまるとはこういうことか?とこのときは。
少なくともなにかにとり憑かれ、金縛りのようなものにでもあっているのだろうか?と、そう。
二進も三進も(にっちもさっちも)いかないなんてこと、人生初だったから、この先どうすればいいのか、正直、見当もつかなかったのである。
ともかくも、おしえられた、秀吉をふくむ十六人を徹してしらべた。その作業において、やりのこしたことはないと、いまもそう自負している。
にもかかわらず、捜していた根本的因を見つけだせなかった。眠れないほどにくやしく心底無念だったのだ。
じじつどう足掻(あが)こうと、堂々めぐりでしかなかったし、それがかなしく、また辛くもあったのだった。
ただただ解決したい、たったそれだけやのに…。なんで、願いがかなわないのかと。
当初いだいた、夏休みを存分にはあそべなくなるとの予見の後悔など、比すべくもない悔恨に、紅のなみだが耳にはいった。
しかし、だからといって、苦悩をかかえたままでずっと、というわけにもいかないことくらいは…。
ついには、秀吉転変の理由を特定できないままに、けっきょく、投了したのである。いや、放りだし、無理やりにでも忘れることにしたのだった…。
あとは、なるようになれ!
翌日からは、苦艱にまみれたまま、それでも読書感想文もかいていった。宿題という責務にとりくむことで、懊悩は、おかげで日にち薬、まぎれていったようだ。
十二歳のガキの苦渋と苦汁なんて、生活に根ざしていないだけに、このていどのものかと。
こうして不完全燃焼のまま、小学生最後の夏はおわり果てたのだった。
そうではあったが一方で、これもなにかの縁(えにし)か、こびりついたコゲのようにしつこく心の片隅、否応なく引きずりつづけていたのである、それこそ、ああ十八星霜……。
十八年後の、突然の…変転、いや、解決とスッキリ