つぎは、前漢の高祖劉邦。秦の始皇帝の死後、覇をあらそった項羽をたおし戦乱の世をおさめた人物だ。
かれは権力を独占せんと、彭越や英布など建国の元勲たち(“背水の陣”や“韓信の股くぐり”で有名な韓信は、おなじく建国の元勲で謀臣だった蕭何が謀殺)を滅ぼしていった。
しかしながら、蕫卓のような悪逆な惨殺はしていない。
その劉邦だが、もとは地方のしがない下級役人であった。親分肌の一面もあったが、当初から無頼の徒でもあり、のちの家来に「傲慢でひとを侮蔑する性格」と評されてもいる。伝承によると、頭角をあらわすまでは、阿漕(あこぎ)な商売などにも手をそめていたようだ。
だが張良などの有能な家臣にめぐまれるにつれ、天下に名をとどろかせてゆくことに。
紀元前205年、五十万人超の軍勢、連合軍ではあるのだが、それを有するまでにいたり、やがては雌雄を決することとなる項羽と、まずは彭城の戦いにのぞんだのだった。
だが、そこで敗残ののち追手からわが身をまもるため、嫡男(のちの恵帝)と娘を馬車から落として負荷を軽くしたというエピソードは有名である。直後、御者がたすけたからいいようなものの。
さて、この点の比較。母親や妹を利用したことのある秀吉とはいえ、とくに直系を大事にしていたわけで、そこがずいぶんと違う。
また劉邦のように、かりに独裁者のほとんどが、権力奪取をさかいに家臣たちを粛清していったならば、側近であれ、また、のちの建国の元勲といえども、覇者に仕立てるべくと、いのちをあずける覚悟で、つかえる者などでてくるはずもない。
成就のあかつき、いつ逆賊の汚名のもとほろぼされるか、わからないからだ。
たしかに誅殺の名のもと、臣下たちをほろぼした権力者もすくなくない。中国史においてはとくに。
だが、もし劉邦式という粛清の定理があったならば、こんどは下剋上こそが、人類の歴史となったはずである。無為のまま殺されるのではなく、わが身の安全をはかるために、主君暗殺を計画し実行するだろう。
いうまでのなく、自己防衛は本能であり、とうぜんの人情なのだから。
ところが、殺戮をくり返す下剋上が有史を覆ってはいない。
独裁者は数多存在したが、家臣に冷酷な劉邦タイプはむしろ寡少なケースで、この点でもやはり秀吉とはちがう。
ちなみに、わが身の静謐(せいひつ)をはかった数すくない史実として、腹心で養子にもなった呂布(既述)が、蕫卓を暗殺した事例はある。
おなじように腹心に命をうばわれたとのキーワードで見過ごせないのが、ユリウス・カエサルと織田信長だろう。
呂布とは動機がちがうようだが、前者は側近のブルートゥスたちの手で暗殺され、後者はいわずとしれた明智日向守光秀によって、横死させられたのである。
ところでこの二人の独裁者ともが、今回のナゾ解明の、役にはたたないであろうと。
人格の転変において、横暴さの度合いが増したていどならあるかもしれないが、逆転といえるほどのものは、両者ともにみられないからだ。
たしかに、つぎつぎと政敵を葬りさったカエサルではあったが、クレオパトラをしたがえローマへ凱旋すると、終身独裁官に就任(共和制をこわした、これが暗殺の根源因)する。しかしその前後において、無益な殺戮はしていない。
また、信長においてもせいぜい、長年つかえた林通勝や佐久間信盛などを、廃品のように突然放逐したくらいである。それも信長にすればゆるすまじき咎がかれらにあったからで、にもかかわらず命まではうばっていない。ほかの配下への配慮もあったのだろうが。
ちなみに、比叡山での無差別大量殺戮は非道のきわみだが、延暦寺の、仏法者にあるまじき強欲・淫蕩・搾取にたいする見せしめのためだったと。むろんやりすぎではあるが、人格が激変したことによる、残虐ではない。
ところで暗殺といえば、その計画が失敗したことで有名なのが、対ナポレオンと対ヒトラーの史実であろう。ただ、この二人を暗殺しようとの立案者たちは、蕫卓を刺殺した呂布とは趣旨がそれぞれにちがっている。呂布はあくまで、じぶん個人の危険回避が目的であった。