いっぽう、首肯(うなずき)を肯定ととった母は、“血塗られた”秀吉の実歴を順不同ながら、こんどは具体的にあげていくのだった、メモをみながら。母もひそかに、時間をさいてどこかでしらべていたのだ。

そんなかげの努力に、ひととしてのあるべき姿を教えられたこともあり、いっそう好きになった。

ちなみに母はこのとき、なにをおもったであろう。無言で、人倫をしめしたかったのだろうか。

その一、姉の子で、いちどは後継者として遇した関白秀次とかれの側仕(そばづか)え数人に切腹をめいじ、子息と息女五人および妻妾や侍女など三十九人を、無実なのに惨殺したこと。拾丸(ひろいまる)(のちの豊臣秀頼)を天下人にせんがための、邪魔者を排除したとの説が有力だ。そのいっぽうで、秀次による謀叛説、あるいは“殺生関白”といわれた異常人格説もある。だが謀叛説は、秀吉好都合の色がつよいぶん根拠がよわく、よって、色褪せてみえると。

するとここでわりこむという、ボクの悪い性癖がでた。脱線ぐせである。だから手短ですませるが、つまり、

ではなぜ、こうも諸説があるのか、である。疑義の、ここ数年の結論だが、当事者が口をつぐんでしまったからだと。秀吉は筆まめなれど“不都合”のゆえ、は理解できる。しかし、賜死の秀次も手記をのこしていない。存在はしたが、刑後、処分されたからかもしれない。

それにしても頂けない説は、後継問題云々だ。関白とはいえ、傀儡(あやつり人形)であり、どう転んでも実権を手にはできない。秀吉の死後であっても、秀次にしたがう軍勢など、秀吉恩顧の兵力に比すべくもない。しかも人望も刮目にあたいする戦功もなく、戦術や戦略は凡庸である、ないない尽くしなのだ。

よって、秀頼豊臣家にとって脅威とはならない。換言すれば、害毒になどなろうはずもない存在。元来、知恵者だからこそ覇者となれた秀吉である。

賜死の必然がない以上、生かしておけばよかったのだ、目障りだとしても。

結論。殺した理由がみつからないのである。閑話休題。