ところで、母の小首をかしげる風情が父にとっては、いまでもたまにみせる可愛い仕草、だそうな。「結婚するまえからやけど、あれにはまいったで」と湯船のなか、おとこ同士ふたりだけのときに、にやけ顔で、恥ずかしげもなくそうもらした。
惚気(のろけ)ているらしいが、ボクはそのとき正直、バカらしくなってしまった。たしかにアホなオヤジだが、大人になったいまにしておもう、ひととしての可愛らしさだと。
で、今年の三月二日で満一歳になるわが長男も、やがて父親になったくらいに、ボクの粗忽さを可愛いとおもってくれるだろうか。
まあ、そんな先のことはいいとして、たしかに、若いころの母の写真をみると、小泉今日子に似てなくもない。とうじの体型も及第点で、容貌はひいき目なしでも十点満点で、八点といったところか。
「塗ったとか染めたとか。おとこがそんな細かいこと言(ゆ)うてたら、女の子にもてへんで。とにかく太閤記をよんでみ。秀吉がすきやったら、どんな人物でなにをしたか、知りたいやろ」
“太閤記“なるもの、未読とはいえ、相当な長編であることくらいはしっていた。読みきるとなると、かなりの時間を費やさねばならなくなる。だいじな夏休みを、本によって奪われるのは、たまらなくイヤだった。
ましてだ。小学生最後であり、中学に進めば、進学先もたがいにかわり、その意味では一生に一度の夏休みを、ぞんぶんに悔いなく遊びつくしたかったのである。
だが、それが確実に、はたせぬ夢となってしまう。
羅刹のひと声で、“わが人生に悔いあり”と後悔することを予見できた。