鬼瓦がフロントクラークに入魂の訊きこみをしていた時刻より遅れること四時間、所轄の、別の訊きこみ担当者二人。こちらも親子ほどの年齢格差の新旧コンビだった。が、息があっており、被害者たちを乗せたタクシー運転手の証言を重要とみた。バックミラー越しではなく被疑者を間近で見ていることが、ホテル前の街頭監視カメラの映像からわかったからだ。これもその映像のおかげだが、どこのタクシー会社かすぐにわかった。
21時にあがる運転手を訪ね、その中年男から以下の証言を得た。さても、来訪の目的を聞いた直後から口まめが始まったのだった。多弁だからとて証言を疑う理由はないが。
タクシーに乗る前、被害者はすでに、謎の女の介添えなしでは歩けないほどだったと。
すでに睡眠導入剤を飲まされていた可能性が高いと推測できる。乗せた場所と時間、そして一番知りたい同伴女性の顔や特徴などを、饒舌の間隙をぬって捜査員は訊いた。
「午後八時五十二分、大阪市北区曽根崎新地一丁目のステーキハウス前から」と業務日誌を見ながら。ついで、「なんて香水か知りませんが、男心を蕩けさす良い香りでした。顔はグラサンで見えませんでしたが、出るとこは出てるええ体でした。できればあんな女と」
「えへん」刑事は大きな咳払いで二度目の道草を許さず、目的地の、人物特定へと向かう道を進ませるため無理やり、話を同行させた。
仕方なく「それとレースの白い手袋をはめていた、特徴といえばそれだけで」と続けた。
情報を得るための刑事の辛抱は、地取り捜査における屋外の暑さ寒さだけではない。
質問に答えて、運転中にホテルの部屋までの介添えを頼まれたときの言葉づかいやイントネーションから、関西の女の人だと感じたとも。
「支払いはどっちが」
「女性が自分のバッグから。ですが、財布は男物のように見えました」
店を出た直後、タクシーをつかまえるまでの間に、被害者のポケットから財布を盗んだ可能性が高いと、ベテランは推測した。――ということは…――いや、今は想像はさておくと思い直し、そのあとのことを詳細に訊いた。結果、一万円のチップを渡すときも同じ財布からで、しかも手袋をはずすことは一度もなかったということもわかった。――あつかましいというより、自分の指紋の付いた札で支払いたくなかったからや、きっと。この推理が正しいとなると、子細に至るまで計画された犯行――ということになる。

ホテル周辺の訊きこみに当たった捜査員たちは、捜査会議でいい報告をできずにいた。
そんな彼らを尻目に翌日の午後二時、前日に続き新旧コンビは、被害者の胃の未消化な内容物と昨夜の運転手の証言から、北区曽根崎新地一丁目のステーキハウスを手始めに訊きこみに当たった。ビンゴだった。犯人と被害者はやはりここで食事していたのである。
若い方が、2002年十月一日よりの現行規格で身分証機能のみとなった”警察手帳”を示し、一昨日夜の接客係を呼んでもらった。三人いた。犯人とおぼしき女性の似顔絵と被害者である警部の写真を見せると一人が残った。二人が着いた席を担当した係であった。
ここでも質問は、古株の方がした。
「このお二人なら、午後七時二十分ごろご来店され、あそこのテーブルでご飲食なさいました」捜査員が提示した似顔絵と写真をいちいち指で指し示しながら若い女性店員は、刑事ものドラマでよくあるシーンを現実に実体験していることが嬉しいのか、顔を上気させている。指したテーブルは広いフロアーの隅であった。出入り口並びにレジの向こう奥になっているため、他の客席からは死角となる。人目を避けるには格好の席というわけだ。
捜査員は、誰がその席をチョイスしたのか確かめることにした。「あなたがあの席に案内されたのですか?」こういう場合、誘導尋問にならない質問の仕方の方が有効なのだ。
「いいえ」とかぶりを振り、「一週間前、私がご予約の電話を女性の方からお受けし、人の眼を気にしないで済む席とのご要望であちらをお取りしたのです。ご予約は七時半だったのに少し早く来店されたので準備が完了してなくて。それでご来店時間が七時二十分ごろだったと断言したのです」敬語の連続に舌を噛みそうな今どきの女子で、せいぜい二十二・三歳。茶髪にピアスそれとカラーコンタクトの、一見頼りなげにみえる外見。だがどうしてどうして、見た目からは想像できないほどに、どうやら正確な記憶力の持ち主であるらしい。さらには、まだ訊いていない有用な情報までをはきはきと答えたのだった。
「予約は女性がした。で、名乗りましたか?」名乗ったとしても偽名だと思いつつの質問。
首を傾け、脳内の“海馬”の抽斗(ひきだし)を開け閉めしたあと、「沢田貴子さんでした、確か」と言いつつレジ横のパソコンで確認した。「記憶どおりでした。携帯番号と住所、要ります?」
若手は先輩からの目配せの指示に従い、ディスプレイの見える位置に移動し、名前や電話番号などをメモした。そのあとすぐ、その番号に掛けた。しかし出たのは男であった。身分を明かし、念のために住所と名前を訊いてみた。やはり、別の住所に住んでいた。
その間「たいした記憶力ですね」と、ベテランは持ち上げてみせた。いい加減な証言では困るので、その辺の探りを入れるという意味もあった。
「場所の指定をなさったお客様、わたし初めての経験だったので。それに入店時からずっとあんな、人相を隠そうとするこれ見よがしの格好してたら、かえって目立つでしょ」
“これ見よがし”なんて若い女性には不似合いと感じながら、「男の方は?」と訊いた。
「いえ、女性の方だけでした。男性はその代わり、どこか気落ちしている風に見えました」
見た目はおバカキャラだが、同じ年代の男ならここまで鋭い観察眼を持っていないのではないかと、店員と年が近い二十代後半の捜査員は変に感心しながらメモをとっていた。
ベテランが気になったのは男の悄然で、二重の意味でなぜ?と問わずにはいられなかった。「来店前、すでにケンカでもしてたからでしょうか」わかるならば悄然の原因および悄然にみえたわけを知りたかったのである。
「いえ、そんな風には」刺々(とげとげ)しいとか、男女の関係がこじれた様子でもなかったと。
「では恋人同士という風?」違うはずだが、いずれにしろ二人の関係を知ることは重要だ。
しかし、すぐ否定の動作が返ってきた。「ケンカしてても、深い関係の男女ならわかります」女性は確かにその辺り敏感だ。「むしろぎこちない…、気まずそうでよそよそしい雰囲気でした。それと男性がリードされてる感じ。立場的に弱いのか、気圧されてる風でした」
捜査員は三十八年来の女性経験から、とはいっても妻を入れてたった三人しか知らない女性の顔を思い浮かべつつ、天の賜物といえる女性の勘は真相を見抜く力を有すると、常日頃から敬意を表している。「では、女性の方がリードしていたというか、積極的だったと」
「そういうのとも違う、かな。そや、男の方がしきりに頭を下げていたよ」
「むずかしいなあ」何をもって違うというのか理解しかねた。それに、頭を下げていたというが、謝罪なのか、何かを依頼していたのか判然としない。「ぶっちゃけたとこ教えてもらえたら、捜査員としてありがたいんやけどな」目の前の店員だけが、問題の男女をじっくり観察できた目撃者なのだ。まだ若いが、天与の勘を持ち合わせているはずと期待した。
「んんん…、やっぱ、わかんない」どう表現していいかわからないのだ。
――お前はおバカタレントか――成人男性ふたり、そう、思わずツッコミそうになった。
「けど、雰囲気はなんとなくヤバそうやった」ランチの時間を過ぎた客のいない時間帯だったせいだろう、いつの間にか、普段の話ぶりに変わっていた。表現しやすいからだろう。
彼らもこの時間を狙って訊きこみをかけたのだった。従業員が急かされないからで、そのぶん正確な証言を引出しやすい。おっさんデカもこの“ローラ”に合わせ、くだけた問い方に変えた。その方が証言しやすそうだったからだ。「どんな風になん、ヤバそうって」
「うまくは言えんけどどこか危なっかしい、普通やない男と女…。ぼそぼそしゃべる女に、男は手ぇ合わせてたこともあったし。けどう~ん、わかんない。これ以上は訊かんといて」
抽象的すぎて具体的な表現に困っているのかと判断し、「角度を変えて訊くから教えて。たとえば女性が薬みたいなもん飲ます仕草してなかった」六十路手前は、“ヤバそう”をそう取った。明らかに世代間ギャップである。ちなみに薬だが、睡眠薬を念頭においていた。
「つきっきりで見てたわけやないから、そこまでは」
お説ごもっとも。とはいえ質問と答がどこかしっくりきていないし、このまま手ぶらで引き下がることもできなかった。「酒を勧める回数が目立つほどに多かった、なんてのは?」
「んんん?目立つほどに多かったかどうか…。けどそういえば、飲み干したばかりのグラスにワインをすぐに注いでるところ、二回ほど見たよ。『強いですね』って言いながら」
――やっぱり。どうしてもトイレに行かせたかったんや――酒類には利尿効果がある。むろん、酩酊させる必要もあった。「それで、男はトイレに行きませんでしたか」
「はい。手招きで呼ばれて、場所を訊かれました」
「そのときの男性やけど、呂律はどうやった?それと足元…、ふらついてなかった?」
「話ぶりは少し酔ってるかなぁってくらい。でも歩きは普通」この時点ではまだ、二人の人間に介護されなければ移動できない状態、ではなかったのである。
「その間、女性はどうしてた。男のグラスを手元に持ってきたとか」できれば目撃していてほしかった。が、
「だからっ」店員としての仕事に勤(いそ)しんでいたから見てないと、少しむきになった。
ここはひと言詫びておいたが得策と、刹那に手を合わせ小さく頭を下げた。桜の紋を背負(しょ)うデカといえども客商売と同じで、怒らせたら負け。あとの仕事がしにくくなるからだ。
「あっ」とここで、何かを思い出した様子。ちょっと言い訳がましく、「動かした瞬間は見てへんけど、グラスが女の人の手元に二つあり、片方だけ中をクルクルかき混ぜてました」
――よっしゃ――小躍りしたくなった。――やっぱりここで眠剤を飲ませたんや!――もちろん絶対的な証拠ではないが、状況証拠としては重要な証言だと。念のため正確な時間を確認することにした。
「確かあの晩、小さな地震があったよね」ローラもどきは突飛なことを言った。
捜査員は二人とも覚えていなかった。無理もない、震度2であった。それほどに微弱な揺れだったから感じることすらなかったのである。
「かき混ぜてたのはそのほんの少し前。…わたし子供やったけど、阪神淡路大震災のあの大揺れが今でもトラウマになってて、それで、少しの揺れでも…」だから覚えていたと。逆にそのおかげで、女性客の不可解な仕草を忘れてしまっていたとも頭をかきつつ述べた。
若い方の捜査員が早速、スマフォで地震の発生時間を調べた。「午後八時四十四分です」
睡眠薬は即効性で、速ければ服用後七・八分で睡魔に襲われるということだった。そしてグラスへの混入は、タクシーに乗り込む八分ほど前ということだ。急かされた被害者の警部がワインを飲み干すに長くて二・三分。薬効発現時間と符合する証言であった。
古株が、「お前も質問があれば訊いてみろ」と促した。昨日と今日、言われたとおりにし、仕事もそこそここなしたご褒美のつもりだった。
ならばとて、質問は以下のとおりとなった。 1 ヤバい雰囲気と感じた正確な理由。 2 食事中、サングラスをはずさなかったか。 3 支払いはどちらが。 4 以前の来店の有無。最後に、 5 女性を絞り込みたいが、特徴的なこと何か覚えてないか。だった。
女性店員は年の近い捜査員に対し、ごく自然に友達感覚のため口で答えたのだった。 1「訳ありの男女にみえた。席に着いて間もないころは、芸能人のお忍びか不倫カップルかと。いずれにしろ男はどこかオドオドしてたし、どんな関係のカップルなんやろうって。それに、会話が洩れないようヒソヒソ声やったから。おかげで内容がわからんかったんは残念やけど」と、ここまではよかったが「似顔絵の女性、誰なん、女優さん?やないよね。どんな事件に関わったん?」との逆質問。公開されたニュースや新聞を見ていないようだ。
「今晩遅めか明日のニュース番組見たらわかると思うで。申しわけないけど、僕みたいな新米が下手なこと言うたら、あとで叱られるから」悪いな、と手を合わせた。
ふ~んと仕方なさそうな声を洩らし、「若いと、何かにつけ辛いやん」この年下の女性は、新米には嬉しくもない同情を発した。「ところで質問は何やったっけ。あ、そや」野次馬根性を破れそうなオブラートで包むように潜め、「雰囲気からやけど、女性の方が男を責め立ててたというんか、叱るような口調に感じ取れたし、それに男がぼそぼそ答えたり謝ってるようにみえたけど」と述べた。しかし、眼はカラコンをしていても正直だった。この手のゴシップ的きわどくてヤバい話は大好きといわんばかり。芸能人の離婚や破局に血が一滴でも流れようものなら、狂喜乱舞のワンダーワールドなのだ、この娘にはきっと。
2 は、なかったよ。 3 は、男性がカードで、とそっけなかった。
「ということは支払いのとき、まだ意識はしっかりしてたんやね。トイレの場所を訊いたときはしっかりしてたみたいやけど」証言を遮るように、若手が思わず尋ねた。店内で睡眠薬を飲ませられなかった可能性、少ないとはいえ依然として残っていた。捜査員としてじつはそれを恐れたからだ。薬を入れていたとの決定的な目撃証言があればよかったのだが…。解剖所見から、睡眠薬服用はここでなければならなかった。注射痕やクロロホルムの痕跡が残っていれば別の手段で被害者を意識喪失させれたが、胃からの吸収である以上、ここを逃すともはや不可能なのだ。しかし思惑は外れた。即効性とはいえ七・八分は掛かるのだ。タクシーを待っている間に「飲ませた」では、困ったことに時間的符合をみない。
ところでデカの困惑をよそに「『まだ意識は』って?…まだってことは…店を出たあと、意識を失くしたんですかぁ?」と、興味本位の質問で肩透かしを食わしたのだ。言わずもがなの若手捜査員のひと言にだぼハゼのごとく、好奇心露わに喰いついてきたのだった。
若手は反省し、証言協力が必要だったので支障のない程度で簡潔に説明し答えを促した。
野次馬根性を満たされ、「意識しっかりしてたよ、自分でスーツの内ポケットから財布出してたから。けど足元は多少危うかった。酔ってるからやなかったん?」そう告げたのだ。
足元のふらつき、薬効が出始めたからであろう。胸を撫で下ろすと質問を保留し、レジ記録を確認してもらった。支払いの正確な時間から、意識が朦朧としだした時間も類推できる。タクシーに乗り込んだ時間との差が数分あれば、その間に混濁した可能性は高くなる。いずれにしろ、服用後、睡眠薬の効果発現所要時間も調べなければならないと考えた。
記録によると午後八時四十九分。ワインは一本だった。
4 初めてやと思う。けど顔を隠してたから断言は無っ理~。 5 色白で鼻筋はシュッと。唇は薄めやった。おそらくかなりの美形やと思うわ。あんな口と鼻になりたいな。それとねぇ、白くて目の細かいレースの手袋をしてた。訊かれたから思い出したけど、食事のときもずっと。そういえばトイレから出てきたときもしてた。あんな人、初めて見たよ。
指紋採取の手間を、捜査する側にとって、悪い意味で省いてくれたということだ。
指紋採取は諦めざるを得ない。が、時間の逆算ならできる。勘定を済ませタクシーに乗り込むまでに約三分。運転手によると、乗車時すでに睡眠薬は効き出していたようだ。これは、女性接客係の証言とギリで符合する。つまり、睡眠薬入りワインを飲み始めて約三分、飲み干したあと席を立ち勘定するまでに一・二分。合計で七分ほどになるからだ。そして乗車時間は六分。この間に薬効はさらに進み、運転手の介添えも必要なまでに意識を喪失していた、そうみて間違いなさそうだ。
トイレに立たせその間に睡眠薬混入、会計直前の服用へと誘引した謎の女。まずは計画どおりであり、このタイミングがいちばん都合良かったからではないか、とデカはみた。

捜査員の三割は、帽子サングラス姿の女性が映る写真と似顔絵を手に、訊きこみの輪を次第に広げながら目撃者を捜していた。写真は、防犯カメラの映像から処理して得たものだった。この訊きこみに十日を費やした。だが無念にも、全くの徒労に終わったのである。
まずはタクシーに乗った形跡だが、全くなかった。また、結構目立つ格好ゆえに目撃者は相当数いたが、犯行後の足取りは当初おぼろげだった。それでも目撃証言を繋ぎ合わせ、同じく北区梅田一丁目に建つ大阪駅前第一ビルまではどうにか辿り着けた。だがここで忽然と消えたのである。結局、犯人が上手(うわて)だったということか。
そこで帳場は考えた。そして得た推測は、トイレで着替えたから…とすれば防犯カメラの映像検索も意味をもたない。同ビルは午後十二時まで出入りできる。ホテルを出たのが午後十一時過ぎだから充分に間に合う。キャリーバックの中身はゴミ箱に捨て、キャリーバックをトイレに置き去り、着替えをし目立たない服装になって、人ごみにまぎれてJR各線や各私鉄、地下鉄各線の駅に向かえば、縦横斜めと路線は二十近くある。もはや追跡は不可能だ。
こうして手詰まりのまま、捜査は空回りしていくのだった。ひとえに、長野刑事部長が娼婦犯人説を基にした捜査方針に固執しその方面を中心に捜査を展開させているうちに、時間ばかりがいたずらに過ぎていったからである。しかし元はといえば、長野と彼にお追従(ついしょう)する、捜査の現場経験が少ない超エリート連中が指揮したこと自体が無謀だったのだ。
時すでに遅しと、事件から約一年。捜査本部は、体制が変わったとはいえ、いまだに解決の糸口すら見つけられないまま、半年後には完全に暗礁に乗り上げてしまったのである。
千載一遇とばかり、野望に狂った長野刑事部長の誤った捜査方針が元凶だったことは間違いない。大事な初期捜査時からの本源的失策や逸失による取り返しのつかないダメージだったと、以後、現場の捜査員たちには臍(ほぞ)を噛む日々となった。が、《あとの祭り》である。
グリコ・森永事件は、指揮をとった元大阪府警本部長の過失と無知が元凶、に似ていた。