捜査範囲が広がったなか、重たいだけの、徒労に倦(う)む時間のみが遅々とし、捜査員の心身には疲労感と虚脱感が深く刻まれたのだった。それでも時間は寸進し留まることはなかった。振り返れば、一年半前の弥生の夕、長野の訓示から捜査は実動したのである。

清少納言が“枕草子”であけぼのが良いと愛(め)でた春(ここでは昨年の春を指す)はとうの昔でもはや記憶から消え、長かった梅雨空はいつか遠く過ぎ去り、体感40℃の猛暑の下、焼けたアスファルトに耐えた革靴もすでにゴミ箱行きとなり、束の間だった秋の、山野を彩った紅葉にも気づくことなく、コートの世話になる冬始まりの師走、そしてクリスマスも年の瀬もいつのまにか終わっていた。明けての正月の団欒もその九十日超後の花見の宴も、帳場の捜査員には全く関係なかったのである。
ただただ、それでも捜査は変わることなく続いた。変わったのは一年後の、捜査体制であった。むろん縮小された、だけではなかった。それにしても、長野体制の一年は長すぎた。その間、長野刑事部長の、“警視総監”の椅子に座るという野心から生まれた我執、黒い企てが常に捜査全体を支配してしまっていた。野望完遂。是が非でも府警本部長を辞任に追い込もうと謀った闇黒の固執である。それが、混迷捜査の長期化を生んだのである。
それでも的を射ていればまだ良かったのだが、彼は頭でっかちでしかも経験不足。にもかかわらず、ただ頭ごなしに指令を下すばかりで、現場の意見に耳を傾けようとはしない、ただ都合のいい成果だけを求めすぎる。その当然の帰結が、混乱とやがての閉塞であった。

現場経験の些少な超エリートが捜査の直接指揮を執ったこと自体、現場のデカたちに云わせれば暴挙だった、のである。
“暴挙”といえば、そう…、現実にあった端的で歴史的な例がある。未解決事件として完全時効をむかえた有名な、かのグリコ・森永事件(警察庁広域重要指定114事件)だ。
当時の大阪府警察本部長はド素人のくせに、全国民が注視した事件の指揮を執り決定権を握った…暴挙。現場では何度も実行犯逮捕の絶好機があったのだが、「泳がせろ!」と命令。現場からの、悲痛なまでの再三の逮捕要請に対する、“馬鹿の一つ覚え”の返答だった。一網打尽の逮捕に固執したのだ。現場を無視し悉く同じ轍を踏んだ結果、真犯人の逮捕者ゼロという完敗の未解決事件にしてしまったのである。まさに前代未聞。本部長筆頭にキャリア組が、かい人21面相と名乗った犯人側に“阿呆”呼ばわりされ、翻弄され続け、結局、一敗地に塗(まみ)れた最悪の事件として、その悪名を犯罪史に刻んでしまったのである。
この一連の凶悪事件の終盤。身代金受け渡しのために実行犯が名神高速で大阪を過ぎ京都を越え、滋賀県に入ったのだが、痛ましいのは、全てにおいてつんぼ桟敷に置かれ何も知らされなかった当時の滋賀県警察本部長が、後日、自殺したことである。犯人を取り逃がしたと自責したゆえの、身の処し方だったのか。しかし、非難されるほどの失点があったとはとても思えない。にもかかわらず、最悪の不幸な結果となってしまった。遺族ならずとも心痛む非業の死、…まことに残念でならない。二度と起こしてはならない悲劇だ。

他方、本当に責任を取らなければならない奴ばらは悠々自適というから、何をか云わんやである。…閑話休題。

さて、もう一度、死体発見通報三十分後に戻すとしよう。
初動捜査はすでに始まっていた。いの一番の指紋と掌紋の採取。血痕、体毛や体液、その他の遺留品捜査も当然なされていた。鑑識課は総動員で、この事件に当たったのである。
これも当然だが、訊きこみ(警察では地取りまたは地取り捜査と呼ぶ)および防犯カメラの映像解析にも力を入れた。目を皿のようにしチェックしたのだ。また映像や証言から被疑者女性の衣服等の割出しに掛かった。特徴ある帽子や目の細かいレースの手袋から犯人に辿り着けないか、購入先を特定できればと捜査員は各所に散らばっていったのだった。
だが各方面から帳場にもたらされた情報は芳しくなかった。結局、購入者特定不能な量販店で扱うありふれた品物と判明した。日にちを食った意味の少ない捜査となったのだ。
現場で採取した指紋や掌紋は、ハウスキーピング(客室清掃等を担当)やルームサービス従事者の指紋・掌紋を除き、また微量の塵埃が付着したものも除いて、七人分が見つかった。ただし客室案内係のものは出てこなかった。常に、白い手袋をしているからだ。
さて、これはのちの話だが、現場で採取されたうちの一人分はタクシー運転手のものであった。意識朦朧だったエリート警部を抱えるようにして、部屋の中まで運んだときの指紋であった。残りの内訳だが、その大きさから男女それぞれ三人ずつということが推測できた。つまり三組のカップルということで、宿泊台帳とも合致した。記されたそれぞれの住所から、警視庁と神奈川県警、福岡県警に依頼し、照合する目的で全指紋採取に協力してもらった結果、六人ともに一致したのである。ただ、その中に犯歴者はいなかった。
たったこれだけに要した日にちだが、二週間も、だった。
ところでなぜ、微量の塵埃が付着した指紋を除外したのか。少なくとも十日以上経過した指紋であり、事件との関連性は極めて薄いとみられたからである。
つまるところ、被害者のも、犯人とおぼしき女性の指紋も出なかったということだ。
防犯カメラの女性は目の細かいレースの手袋をはめていたが、それを終始はずさなかったということだろうか。あるいは部屋の中では、持参していたキャリーバック(捜査の結果これも量販店で購入できるものだった)から別の手袋を取り出し、はめ変えたのかもしれない。従業員を除く七人分の指紋ということは、つまりそういうことなのである。
それにしても…だ。ロープはともかく、被害者の口に貼られていたガムテープからも出てこなかったのには、当の鑑識員も驚いた。普通なら粘着剤側に指紋が残るはずだが…。ということは何らかの工夫をしたことになる。しかし、鑑識員の仕事はここまでだった。
和田も不思議に思った。手袋をしていたのではレースなどの生地に粘着してしまい、被害者の口に貼る作業に難儀したに違いない。それでも無理に貼ろうとすれば、粘着剤側に手袋の糸くずが残るはずだ。それでもうまく貼れるかどうか。
不思議のままでは済ませない質(たち)に加え、ある理由の発生により十月二十二日夜、実験することになる。夕食後、自宅にあった布製ガムテープと手袋で試行錯誤してみたのだ。四半時のあれこれののち一旦保留し、紙製を買ってきた。――実験なのだから――同一条件にすべきと考えたからだ。今度は存外簡単に、指紋を付けず貼ることに成功したのである。被害者の口への貼り物を紙製ガムテープにしたのは倹約ではなく、このためだったのだと。
そして閃いた。ガムテープに拘(こだわ)ったからだろうか。帳場のお歴々はSMプレーに拘泥していたため問題にしなかったが、口を塞いだのは、本来の目的のためだったのではないか。腕を刺した時に、被害者に大声を出させない、他の泊まり客に聞かさないためだと。あまりたいした閃きではないが。それでも――事件の発覚を少しでも遅らせたい――これが犯罪者心理である。犯罪者にじかに接しないお偉方は、実感としてピンとこないのだろうが。
余談はここまでとして、もうひとりの滞在者に目を向けてみよう。被害者である。
彼の指紋が出なかった理由だが、歩行に手を貸したタクシー運転手の証言でわかった。女性の依頼で正体喪失の男性を部屋に担ぎこんだだけでなく、ベッドに横たえるところまで手伝ったからだった。そのとき、一万円札をチップとしてもらったとのこと。まだ手元にあれば指紋を採取できるかと期待した。しかしすでにパチンコ代として消えてしまったと答えた。(運転手の事情聴取の内容だが、調書の訊きこみの項で和田は知ることとなる)
ちなみに捜査本部は知りえなかったことだが、チップの一万円は、サングラスの女が被害者の財布から事前に抜き取った札だった。自分の指紋を警察に提供しないためである。用意周到な計画殺人だった、ということだ。(矢野は後日、このことも推測してみせる)
血痕はベッドと周辺の絨毯から出た。そしてバスタオルからはルミノール反応が。いずれも被害者のものであった。被害者の左腕にあった刺傷からとみて間違いないだろう。
つまり、犯人は返り血を浴びタオルで拭き取ったと。しかし、服に付いた返り血をタオルで完全に拭い去れるはずもなく、したがって着替えない限り、ホテルを出た途端、目撃されるだけでなく通行人の記憶にも残っただろう。計画犯罪において、そんな不手際をするはずがない。用意周到…だとすると、凶行時に着衣の必要はないのだ。下着姿か裸であれば、犯行直後に洗い流してタオルで拭えば、返り血を目撃される心配はなくなる。和田はこう推測し、そのうえで、レースの手袋はどうしただろうと首をひねった。はめていれば返り血は免れない。そこで一旦、カッターナイフを手に取る前にはずしたとみた。
それはさておき、風呂場の排水口のトラップ(臭いの逆流や防虫のため水を溜めておく部品。ワン型が主)に引っ掛かっている体毛を、鑑識も採取したに違いないとみた。中から一番強いルミノール反応の体毛が出れば、それを犯人のものと断定できるからだ。ただ血液型やDNA情報が即、犯人特定につながるわけではないが。
それ以外の体毛も採取を試みた。超高級だけあって絨毯の掃除機がけや当然のベッドのリネン交換、トイレや風呂の掃除などていねいになされていた。それでも三人分が出た。
和田のこのときの推測は、客室清掃係と被害者と犯人のものだろう、だった。体毛は自然に抜け落ちるため、ひとつの場所に一定時間いると気づかないうちに散らしてしまう。またホテルのハウスキーピングは動きが激しいため、衣服についていたなどの体毛は何かの拍子に落ちやすい。被害者のは、服に付着していたものが脱がしたさい舞い落ちたはず、そう睨んだのだ。鑑識がその二人分のだと証明した。そして残る一種類が犯人のものだと、翌々日、これも鑑識が証明した。風呂場の排水口からの毛髪と一致したからだ。理由は以下のとおり。手や肩などに付いた返り血を風呂場で洗い流す際、毛髪が落ちそれが、和田の見たてどおり排水口に吸収されたのだ。血液型はBOだった。
だが体毛の採集が、捜査進展に現時点では役立たなかった。なぜなら犯人のものだとして、今のところ、被疑者を特定するための材料とはならないからだ。現状では、まずもって、犯人の血液型すらわかっていない、ましてDNAを特定できないでいる。
遺留体毛からDNAを検出してもそれでは一方通行でしかない。被疑者から任意で口内粘膜を採取し、その検体と遺留体毛のDNAが合致して初めて決定的証拠となるのだ。だから捜査を進めるなかで、被疑者を絞り込むしかないと現場で奔走するデカたちは思った。
ここでも少々の脱線。千葉県柏市にある科警研が監理する犯歴者DNAデータベースだが、指紋データのように充実していけば、将来的には有用な資料として期待できよう。
さて、血液以外の体液に関し、馴染みの居酒屋で以前、和田の席近くに偶然座った同期の警部補から教えられ和田は知ったのだが、被害者のペニスから精液を検出していたと。
遺留物から犯人を特定する捜査も進められた。しかし、特定どころか捜査の進展に寄与する材料すら出てこなかったのである。理由についてだが、和田が推測したとおりだった。
犯行に使われたロープ、紙製ガムテープ、安手の白いハンカチなどの遺留品だが、ホームセンターや百均ショップで取り扱っている品物ばかりだった。犯人が大量購入した品物であれば仕入れ先の特定も可能だが、SMで使う程度の数量ではそれもできない。
犯人は、遺留物から足がつくことはあるまいと安心して残していったのかもしれなかった。それともそこまでは認識しておらず、甘い放置はただの幸運だったろうか。いや、そんなことはあるまい。計画犯罪であったことに鑑み、まずは前者であったであろう。

ところで死体発見の五日後、投稿サイトによって下半身露出という死体状況を公表されたわけだが、被害者家族と警察にとって、それだけでは済まない事態が起こった。
一年半近く遡(さかのぼ)る2012年五月十五日、つまり事件発表の一カ月後となるわけだが、被害者の顔が露わな状態の、しかも性行為をしているシーンまでが動画投稿サイトに流入したのである。女性の顔にはモザイクを掛けられたその性描写は、裏AV映像さながらだった。

被害者の顔の入手は困難ゆえに模倣犯とは考えにくい。それで前回と同一犯と捜査本部はみた。まさに、死者に鞭打つ所業である。被害者に相当な恨みを持つ者の仕業だ。問題は、そのような人物が浮かび上がってこないことだった。となると捜査を撹乱するために犯人が流した可能性も。事実、現場の刑事たちの意見は、結果二分されたのだから、犯人の目論見は成功したといえよう。そんな機を見るに敏な長野は、愉快犯説を取った。
そんななか、この件で活発な動きを見せたのが、科捜研だった。早速、モザイク除去に取り掛かったのである。犯人とおぼしき女性の顔を拝めると、帳場ならずともかたずを呑んで吉報を待った。やがて、モザイクを取り除くことに成功したのだった。
にもかかわらず、現場のベテランデカ連中が予測した通り、…残念な結果で終わる。
だがそんなことより、もっと遺憾な事態が当然起こった。今度こそ世間が沸騰したのだ。おかげで警察機構が受けたとばっちり被害は小さくなかった。世間に物笑いの種を提供したのだから、下世話を生業(なりわい)にする三流週刊誌が大喜びで飛びついたのはいうまでもない。
というのも映像のテロップで、被害者の父親が大阪府警本部長だと告知したからだ。
長野が追い落としを狙っており、被害者の醜聞が大打撃となる存在とは、この人物のことだったのだ。穢れた野心の眼には、二度目のサイト投稿が天の配剤に思えたのだった。
本部長辞任を目論んだ刑事部長。事件解明の途中で暴かれるはずだった子息の破廉恥な行状に親の責任問題を絡め、事件の暗部の渦に無理やり巻き込んでしまえるだろうと踏んでいた。ようやく思惑どおりになった。世間が沸立つ下世話ネタを提供してくれたからだ。
事件には直接関係ないとの見解から、府警本部は緘口令を敷き親子関係を秘匿してきた。本部との関係を悪化させたくない各新聞社やテレビ局も、だからこの点には触れなかった。
ところが、下ネタ週刊誌がこぞって喧伝してしまったのだ。本位とすべきマスコミの規範と使命などはそっちのけで、興味本位の三文記事を世間に蔓延させたのだ。売れればいいと。だがこれこそが、マスコミの自壊自滅に通じる、否、自爆行為そのものなのである。
それはさておき、堰は決壊してしまった。こうなると元に戻すのはもはや不可能であった。人道的には本来、保護されるべきは被害者とその家族なのである。それなのに凄絶ともいえる三流マスコミの集中砲火を浴び、被害者の新妻と府警本部長はその渦中に押し留められ、守護されることも少なくして、市井の善良な同情や救援の声もかき消されてしまった。イノセントなのに孤立したまま、まさに生き恥をかかされ続けたのである。
より哀れなのは、夫の下半身問題に突然巻き込まれ、逃げるように実家に舞い戻った若き未亡人の方だった。三流マスコミが報道の自由を振りかざし、砂糖に群がるアリ然と多勢で押し掛けた。彼女は涙し、眠れぬ夜に悶々と寝返りをうつ懊悩地獄が続いたのである。
それにしてもの、長野刑事部長が自身の出世のために想念したドス黒い企み。警察庁人事を除く警察階級の実質ナンバー2(大阪府警本部長は警視総監に次ぐポスト。副総監より上位扱い)を早期辞任に追い込めるだろう……これだった。渡りに船の、裏アダルト映像のテロップがなければ、数日後には、匿名で親子関係を世間に曝すという腐臭を伴う企みを実行するつもりだったのだ。
ところで下種野郎の目論見はさておき、投稿サイトに流れた映像だが、科捜研によるモザイク除去作業の結果、とある裏DVDの映像を利用したものと判明した。女性の顔が有名なアダルト映像女優だと、科捜研の技師が気づいたからである(が、なぜ気づいたのか?の記述は調書にはない。日ごろからご厄介になっていたとは、当然記載されるはずもない)。
おかげで、ハリウッド映画が得意とするCG技術を悪用した偽造だとわかったのだった。「だとしても」と科捜研員、本場のCG技術と比較してもさほどには見劣りしない、プロ並みの腕前だといたく感心していた。まあ、彼の感心はおいておくとして、被害者の顔と映像の身体は別人のものと判明したのである。ベテランデカらの予想は概ね当たっていた。
早速、“偽造映像だ”との警察発表を各媒体を駆使し流布しようとした。本部長は表立てないので副本部長陣頭指揮のもと、府警本体は必死で取り組んだ。未曽有の宣伝活動といえた。警察本来の活動にもっと本腰を入れるべきと、マスコミなどがあきれ顔するほどに。
が世間はあまり信じなかった。積年に積年を重ねた不祥事、特に証拠隠滅や捏造等の不埒な実績のせいで、オオカミ少年の如く扱ったからだ。これこそ不徳の致すところだった。
それにしても、相当に手間のかかる作業だという。CGを専門とする製作会社に問い合わせたのだから間違いない。惜しみない手間が「死者を鞭打つためだとしたら、被害者に、“相当”では済まないほどの憎しみと恨みを持っていたからでは」とは製作会社社員の弁。
さらにはあるTVコメンテーター。被害者の恥態の公表が警察を落としめるためとするならば、かなり悪質なだけでなく、こちらもまた遺恨すら感じざるを得ないではないかと。
いずれにしろ、投稿サイトと犯人の間の見えざる関係も視野に入れ捜査に力を入れた。同時に特別班を編成し、グローバルIPアドレスからも追跡を試みた。だが、やがて偽造されたものとわかった。結局、誰が投稿したのかも全く、そして両者をつなぐ関係も掴めなかったのである。足取りを消す手錬は、一流ハッカー並みの技量だからできたのだろうが、お粗末にも日本の警察は、ハッカー、なかでもクラッカー(コンピューター技能を悪用し不正・不法行為を行う者)を、野放しというのか全く掌握していないのだ。
ところで、長野に面従腹背の少数派幹部もいた。捜査一課長と二人の管理官だが、警察本体の汚名返上のため、事件解決に闘志を燃やしていたのである。事件発生から三週間が過ぎたころ気心の知れた部下に、長野とは違う方向性の捜査をさせ始めたのだった。
それが、グローバルIPアドレスを偽造した人物の特定である。CGを駆使して、例の偽造映像を作成・配信できる技能を持った人物の捜索であった。CGの技量は相当、ということならば、全国単位でもさほどの人数ではあるまいと。
登録されているCG技術者を全て調べ上げれば、犯人に迫ることは可能と考えたのだ。内密に特別チームを作り虱潰(しらみつぶ)しに当たらせることに。捜査対象となるCG技術者の条件だが、女性、CGエンジニア検定試験一級合格者、プロとして従事、の三つである。従事者に限定したのは、CG用機器が高価なために個人で所有するには高負担となるからだ。それとCGエンジニア検定試験だが、主にコンピューター・グラフィックス技量を向上させ、映像文化に貢献できる人材育成のための関門、とある。それの一級合格だが、難関だった。
この、検定試験を主催するCG-ARTS協会に捜査員を派遣し、犯人像に適合しそうな一級合格者をピックアップさせた。関西圏よりも関東圏に住む者の方が圧倒的に多かった。テレビのキー局にしろ映像製作の特殊撮影部門にしろ、主流は関東圏にあるからだ。
協会保存の資料を手にしつつ、防犯カメラの映像と訊きこみより得た情報(推定の身長・体重・年齢・顔の下半分に目立つほくろやシミがない等)から、非該当者を一人また一人とリストよりはずしていった。四人に絞れた。しかし、タイで就業中の女性や追い込みの仕事に就いていた、デート中だった等を含め、全員に当夜のアリバイがあったのである。
その後、“従事者に限定”とした間違いに、ある捜査員が気づいた。CG用機器のレンタルが可能だと知ったからだ。取り扱う店は少なかった。すぐに時期の符合する唯一の借主に辿りついた。だが、偽造の健康保険証を使ったニセの住所氏名であった。コンピュータの技量を駆使して偽造したのであろう。似顔絵を作ることもできなかった。黒いサングラスに帽子という、例によってのいでたちだったからだ。ここで、この方面の捜査も頓挫したのである。有効に思えた捜査線だっただけに、捜査一課長たちの落胆は隠せなかった。
そうこうしているうちの府警本部の約一年半。その間に、現場の捜査員たちにとっては取るに足りない激動が起こったのである。府警本部長の辞職と長野刑事部長の左遷だった。
本部長は精神的に参ってしまったのだが、加えて国家公安委員長か警察庁長官あたりから政治的圧力、いわゆる肩叩きがあったのかもしれない。だが、全ては闇の中だ。
一方の長野。警察機構ナンバー2の排除を知り、心密かに歓喜雀躍したのも束の間、地方への降格人事に泣いたのである。この椅子取りゲーム脱落者の不様(ぶざま)を嗤った者の数は…。
そして本部長の交代とともに、帳場(捜査本部)はその規模を縮小されてしまった。
これらが、約半年前のドタバタ劇であった。

昨日までの無聊を持てあました和田警部補。慣れていないのだ。だから現在いい時間を過ごせていると秘かに喜んでいる。まさに、根っからのデカなのだ。また、人生において無聊を罪悪と捉えてしまう、まるではたらき蜂のような質を、家族を含む周りは、泳ぎを止めたら死ぬ“マグロ”だと陰で噂しているくらいだ。そんな彼が次に思い出した事件。
これも女性がらみだが、つい十日前の総合病院院長殺害事件である。被害者の色情狂的醜聞が投稿サイトで公開され死者に鞭打つ異常な事態となったこと、計画犯罪である点など、共通項があったからだ。ただ殺害手口の違いから同一犯ではないだろうと。
共通項以外の情報としては、被害者家族に事故死亡者が出ている点とライフルによる射殺、この程度だ。ただ、日本では珍しい型の事件なのに詳細を知らなかった。警部全裸殺人事件の情報を得る余裕があった時期と違い、一昨日まで忙殺の日々を送っていたせいだ。
ところで気になりだしたら治まらない性分の和田である。藍出と交わした雑談の、内容確認もせずにはおれなかった。各項目をメモにとるとおもむろに立ち上がり資料室へ、次に鑑識課に、最後に、各事件や事故の捜査内容を生きた言葉で教えてもらうため星野管理官を訪ねたのである。彼は星野警視の下で、何度も難事件に携わってきた経験を持つ。また、信頼され気に入られてもいた。だから他の、二階級上の管理官に比べるまでもなく、捜査中の事件であっても尋ねやすいのだ。
とはいえ即座の行動は、放置したままでは済まない気質によるだけではなく、上司の矢野警部の手法を真似たものでもあった。不明事項や疑問はすぐ調べるという捜査法である。
訪ねられた星野は、尋ねてきた事件に対しある思惑もあり、柔和な笑顔で質問に答えたのだった。

デカ部屋を出てから三時間後、数々の捜査資料を手に、和田は屋上に向かったのである。