ところで、警察をさんざん玩もてあそんだこの若者。プロの巨大組織が愚弄された因のひとつが、変装の技量にあった。目撃者が、ついで警視庁がものの見事、幻惑されてしまったのである

矢野も和田も、目撃者の記憶だけにたよる危険性を、実体験として知悉(知り尽くす)していたが、向後のべつの捜査のことをおもうと、あらためてそれがあやういと実感しつつ、肝に銘じたのだった。

というのも、写真ではなく生を目のあたりにしたいま、岩見の地元後援会事務所で、直接に犯人の東と数日間はたらいた三人の証言と実物とが、かなりちがっていたからだ。

事ここにいたってはどうでもいいことだが、三人ともが推定年齢を、三十歳以上といっていた。また、いまは素顔だからだが、鼻の横にほくろはなく、出っ歯でもなかった。やはり、変装だったのだ。写真によりすでに素顔を知っていたとはいえ、まさに別人である。

このおとこにすれば、架空の人間になるための変装だったわけだが。まずは、目撃証言と実物がちがいすぎることで、さらには、指紋ものこしていないことで、万が一、警察が疑惑をむけてきたとしても、かんたんにはね返すだけの自信となったにちがいない。

そしてその自信が精神的余裕をうみ、取調べされる事態になったとしても、証拠不十分で拘束から解放されると。

じつは、矢野たちはこの余裕をねらうつもりなのだ。鉄壁の工作がうんだ余裕、確固たる自信、それを逆手にとり、砂上の楼閣へとかえるマジックなのだ。

つまりこう。自信や余裕が東のように過大だと、油断をうむ。そこにスキができる。それで警察をなめてかかっているうちに、しだいにのっぴきならない事態に陥ってしまったと気づき、やがて、自白せざるをえない状況へと誘導する。まさに、好事、魔多しである。

というのも、すべての事件において、犯人であることをしめす完璧なる証拠を、矢野たちがにぎっているわけではないからだ。正面からの正攻法では、限界があるとかんがえているのだ。

和田が憶測したように、変装グッズを使っていた(が、処分したのだろう、ガサ入れのけった、証拠品を押収できなかった)からだが、目撃証言の不備、防犯カメラの映像の不完全、歩容認証の不一致、存在しない残留指紋などなど。

それにしても、後援会の三人は,ものの見事にだまされてしまった。

東が陸自の特殊部隊に所属されていたあいだに、変装の訓練もうけていたにちがいないと。二人はあとで、この推測をぶつけることになる。