矢野は、ある居酒屋ののれんをくぐった。
その向こうにあったのは、底抜けにひとの好いふたつの笑顔だった。
「こんばんは」というなり彼は二階の住居部分にあがり、仏壇のまえに鎮座した。そこにはわかくして病没した、前妻貴美子の位牌がまつられていた。
香を焚き手をあわせると、無沙汰していることをわび、追善の辞をかたりかけた。
いかほどの時間、そうしていただろうか。
かれの背にやさしい声をかけたのは、元義理の母であった。かのじょの目には、感謝のなみだが光っていた。その眸が、ほんとうの愛息といまでもおもっている矢野を包みこみいった、したで用意ができたと。
ふたりは、これもだいじな息子の帰宅をよろこぶ、店主がまつ階下におりた。
無沙汰をわびようとする矢野に「そんな他人行儀な」と、元義理の父がいった。「それより、帰ってきてくれてありがとう。貴美子もよろこんでいるよ」あとはなにもいわず、眼で席をすすめた。そこは、矢野来店時の定席であった。終電の時間がちかづいたせいか、客はまばらになっていた。
目のまえ、かれの大好物の各種生野菜をそえたポテサラと刺身の盛りあわせがならべられていた。よく冷えた生ビールと日本酒も常温で二合おいてある。このあとはニンニクを効させたトリカラとだし巻き、しめは雑炊となっている。
料理によって酒類をかえることも、血のつながらない親たちには折りこみずみなのだ。
矢野は義父をいつも「おやじさん」と、親しみをこめてよぶ。「もう三年になりますね」前妻のことをである
大阪出身の元義父は、「そうやな。はやいもんや」ため息まじりになった。
「せっかく帰ってきてくれたのに、もう、湿っぽいはなしはそのへんにして」愛娘のことを思いつづけてくれているのを内心ではありがたくも嬉しくもあるのだが、“おふくろさん”とよばれる元義母は、“一(かず)ちゃん”の隣にすわると、ちょこに酒をそそいだ。
そんな両親に矢野は、真弓との結婚をゆるしてもらえるようお願いにきたのが、一年半ほどまえのことだった。
そのおり笑顔で、かわいい息子のしあわせを願わない親はいないよと、こころよく即答してくれたのだ。
そのこともふくめ、かれは感謝している。すでにいない両親がまだ健在だったなら、こんなふうにじぶんに接してくれていただろうと。
酒肴がすすんだところで、「ところで、変わったことはありませんでしたか」だいじな両親が、犯罪などのややこしい事柄にまきこまれていないか、の確認だった。
以前、わかいカップルによる計画的無銭飲食に遭ったことがある。犯罪だからたちが悪いのは当たりまえだが、やり口がえぐかった。詐欺的要素もくわわり、滋味(このばあいは豊かな人間味)を逆手にとりじつに巧妙だったのだ。
で、都下だけで数十件あった犯罪の、注意喚起をしておこうとかんがえた。
飲食店の出入りぐち付近の客の荷物を、外部から突然おそうようにして奪い、そのまま逃走するという原始的な窃盗事件だ。そんな被害に遭った客は、なにがおきたか唐突すぎて理解できず、ただ口がポカンとひらいたまま、しばし呆然としてしまうらしい。
「ああ、それなら去年のすえ、うちでもあったで」おやじはこともなげにいった。
「けど、未遂でおわったわよ」おふくろさんもつづけた。
ふたりの話をききながら、ずいぶんと疎遠になっていたことに気づき反省した。いわれてみれば、昨年の十二月半ばに場壁殺害がおこり、以来、忙殺されてしまったのだから、無理もないといえばそれまでなのだが。
「で、よほどに慌てたんか、にげる犯人が遺留品っていうの?コンビニのレシートをおとしていったわ」
「よほどに慌てていたとみえて」このふたりのやりとり、まるでかけあい漫才のように間のとり方も絶妙であった。仲がいい証拠である。
「では、被害はなかったんですね」安心し、鯛の刺身に舌つづみをうった。しかし、やがて矢野に異変がおきることに。ふたりのやりとりの起承転結の“転”となるおやじさんのある一言が契機となった。そして“結”は、矢野の希望的推測のかたちをとるのである。
それはそれとして、おいしそうに好物をほおばる、まるで息子の横顔をふたり、好ましくおもっている。
いっぽう、「いつ食べてもおいしいです」とすなおにいう矢野は、未遂犯がレシートをおとした経緯をつぎのように推測していた。
おそらくは模倣犯で、しかも気のちいさなやつだろう。さらに、寒さで手がかじかんでいたとしたら、荷物をとり損ねたとして、それもとうぜんだったろう。
「いや、まてよ」ここで、こんかいも閃いた。犯行直前までポケットに手を突っこんでいたとしたら?で、左手でドアをあけ、店に飛びこむとどうじに、カバンを奪取しようと右手を勢いよく出した。そのはずみで、ポケット内のレシートが飛びだし、店の床にフラと落ちた、のではないか。
そもそも、置きびきに技量はいらない。手と足さえはやければ。でもこんかいのは未遂であった。たぶん、素人だったから。おふくろさんではないが、慌てていたようすが目にうかぶ。とうぜん、事件は一瞬だった。店にいた時間はごくわずかということだ。よって、落とすひまもなかった。上記以外では、レシートが遺留品になった経緯だが、説明がつかないだろうと。
ところでだ、夫がもとの妻の実家にたちよっても、愛妻の真弓にはなんの不満もなかった。もはや故人というだけでなく、いまはじぶんが心から愛されていることにじゅうぶん満足しているからだ。
そのへんのところをおふくろさんは問うたことがある。「きてくれるのは嬉しいばかりだけれど、おくさんは怒ってないのかい」こまやかな心配りである。
こんどは親父さんが酒をそそぎながら、「未遂事件とはいえ、そのレシート、証拠品として」捨てずにのこしているのは、警察官を息子にもったとおもっているからか。「警察にわたしたほうがええんかな」としかし、口ではいったものの、警察にとどけると手続きが面倒だから、そのじつイヤだった。無銭飲食の被害届をだしたときに一時間ちかく事情聴取され、懲りているのである。
「わかりました」未遂事件の日にちと時間、人相や服装などを簡潔にききながらメモし、親父さんにかわって岡田に手続させることにした。必要事項の書記に一段落ついたところでしかし、「……まてよっ!」と再度さけんだのだった。
唐突にすぎる大声にちょっとおどろいたふたりは、すでにデカの顔になっている矢野を、たんなる窃盗未遂事件なのにと、怪訝な表情でみた。
だがそんなふたりに頓着することなく、――そういえばドローンを盗んでいた、いや、そのあとで操縦訓練を数回はしていた――ことを思いだしたのだ。――もしもその折、指紋がついたなにかを気づくことのないまま、盗難車の床に落としていたとしたら――ご都合主義的おもいつきではあるが、賭けてみる価値はあると、デカの勘が言わしめた。
こんどは黙りこんだ、眉間にしわの矢野のジャマをしないよう、ふたりはそっと席をたった。
そんな気配をかんじるでもなく希望的推測をつづけ――そしてそれが、まだ残っていたとしたら、こんどこそ物的確証を手にできる!――と、さらに我になく我田引水したのである。
ひとがきけば、もはや夢想でしかないとおもうだろう。
しかし矢野には、可能性がゼロとはおもえなかった。
「親父さん、こんかいもタイムリーヒットかもしれません」と謎のことばと樋口一葉を残し、かれは急ぎ帳場にもどっていった。“こんかいもタイムリーヒット”といったのは、いままでにもなんどか、事件解決のヒントとなるいぶし銀のことばを、じぶんに注いでくれたからだ。
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