日毎夜毎、天才科学者の心奥では、納得していないとばかりに不定形の無色透明体がキリキリと音を発していた。音の源はつまるところ、無理やり彼が押さえこんだそのときごとの潔(けつ)麗(れい)な良心であった。
 かれの生きざまをつかさどってきた根底の存在そのものが、精一杯の抵抗をしていたからだ。==そんな残虐行為、どんな理由があろうとも、していいわけがない==と。
 既述したように日々葛藤で、自縄自縛状態なのだ。大望をえらぶか罪悪か、あるいは、誓願か良心かでぶれる無間地獄が、まさに彦原であった。
 いずれにしろ、彦原の五歳時におけるインスピレーションに端をはっした十二歳からの純粋な悲願…タイムマシン機能をもつシステムの達成は、目前なのである。
 くわえての、若き鬼才の、入社直後からの大願。十一年強の長きにわたる奮闘は、並大抵ではなかった。人類初のタイムトラベルを実現させることがどれほどの難事業か、そんなことは、考えるまでもない。
 すすむか留まるかの二者にくるしんでいても、達成間近ともなれば無理からぬこと、逸るきもちを押さえられなかった。自分がこの世に生まれ立った意義を、存在価値を、彦原でしか達成できないタイムトラベルを、一刻も早く。
 そのいっぽう、純粋とは対極の残虐を現出させてしまう偉業なのである。
==嗚呼、心の地下倉に鍵をかけて閉じこめていたはずの十五歳時のぼくの理想==それが蘇ったのはすべて、二年七カ月前に思い知らされた無力感と喪心のせいだ。
 核兵器全廃という大義が、無血という理想の姿では達成できないと思い知った。なぜなら、百五十年間の核廃絶市民運動だが、なにひとつ実を結ばなかったのだから。彼らに罪はない、とは変わらぬ彦原の想いだ。
 だとしても、実現できなかったという史実はあまりに重いのである。
==そうではないか!==為政者に憤怒し、激したあげくに虚脱を得、核廃絶運動へ絶望し、理性が砕けちる破滅をえた。寸刻ののち、怒髪衝天へと増幅していったのである。
 彦原のこころの葛藤は、ことここにいたり、手を下すことになる忌わしい大虐殺という現実でしか、核廃絶を完遂できないとの論理に帰結した。
 その直後にこうむった自暴自棄。
 いかなる表現も陳腐で寸たらずとなるのだが、あえて心裡を記す。発火寸前の油釜に放りこまれ、皮どころか肉も沸熱のなかで寸時に縮み、もがき苦しみながらもはやこれまでと、生を諦める絶望、なのである。
 それをふみ越えながら、理想と大願を実現させるための、空前の大殺戮。阿鼻地獄、叫喚地獄、焦熱地獄があちこちで出現すると知りつつ、冒すのだ、人倫を畏れぬ大逆を。
 執拗な表現で恥ずかしいが、しかも悪しきことにその大罪は、不測のおおきさなのである。
 これからなんども生まれ変わり、そのたびごとに償いをくり返しても、消し去ることのできない大逆、なのだ。
==それでも、なにがなんでもあのおぞましい歴史を、根底から転換するんや==と。==歴史の大転換以外に、核兵器廃絶などできない!やるしかないのだ。核戦争が起きてからでは、遅すぎるのだから==
 巨悪に目を瞑(つむ)りさえすれば、「…人類への貢献は、空前にして絶後や!」と、幾度となく発した正当づけんがための孤独な雄叫び。涙があふれ出るなかで、ひとり唇をかんでいたのだった。
 むろん、彦原は自覚していた、論理が手前勝手な思いこみだということを。¬¬
だから心の内奥にて、すかさず出る反論。==おまえはその人たちに償えるんか?犠牲止むなしと廃品みたいに切り捨てられるんか!==罪悪感と大義とが混淆(こんこう)(=入りまじる)する心のままの、叫びであった。
 普段、はたらきアリを踏まないよう心がけている彦原の優しさは、そしてちいさな命さえも慈しむ心は、どうなったのか、どこへ消えたのか。
 悶々、青年の胸中には大望か絶望か、解決不能な矛と盾が混在していたのである。

「最新の対盗聴撮装置を取りつけてほしい」との二年前からの請求は却下されつづけた。
 最新式を設置したりすれば、特別な発明とその開発の事実をかえって世間に吹聴するようなものだと。
 開発段階時は無防備になりやすい、産業スパイの、格好の餌食にされてなるものか、そんな社上層部の判断のもと、あえて従来型装置のままで通したのである。
 それに従来型とはいえニ年九カ月前に設置したもので、数段進化した機能をもっており充分役にたつと判断したからだった。結局は、CEOの鶴の一鳴きで決まったのである。
 まさに歴史的な発明を徹底秘匿化するために、ウラをかいたつもりであった。
 いや、だけではない。経営陣であれ一般の労働者であれ、X社内で各自支払われる報酬に不満をもつ人間などいるはずがないと。なぜなら、彦原たちがつくりだす発明で、莫大な営業利益を計上し、株主たちもふくめ、その配分は充分な金額だった。だから、社に不利益をもたらす行為をするはずがないとふんでいたのである。発明が基幹なればこそ、社員を信用しないと立ちいかなくなる、これは当然の経営理念であろう。
 そこに異議をはさむものではないが、それでも彦原が憂慮したとおり、情報は漏れてしまったのだった。もっとも、装置を最新式にしておけば防げたとは言いきれないが。
 つまり、最新防止装置を取りつければそれですむという話ではない。それで東専務は、社の代表権に裏うちされた専務命として、プロジェクトにかかわる社員全員に二十四時間、はずすことのできない盗聴装着を義務づけた。
 テロやサイバー攻撃が多発した2015年を機に、各国は自由より人命や国家をふくむ組織の防御・防衛に重きをおくような法体制をとるようになっていった。非常時の期間限定であれば、一企業でも認められていたのである。ただし、せいぜいニ~三カ月のことだと。
 プライバシー保護や人権云々を主張する社員にたいしては、そのあいだだけだが有給の出社停止という厳しい態度で臨むことになったのだ。
 研究所はじまって以来のこれほどに徹した対策は、一種の戒厳令ともいえた。
 同時にCEOと協議し、同日、昇格の名目で女性所長の任を解き閑職へと配置転換した。
 とともに、彦原がとり組んでいる理論に重大な欠陥がみつかり、完成にはすくなくとも二年はかかるとの偽情報を、彦原の部下数人が噂ばなし的に上級幹部にそれとなく流したのである。発明の具体的内容は秘匿したままでだった。とはいいつつ、露骨な手段は避けた。
 理由は簡単、プロジェクトそのものが超トップシークレットだからだ。
 それでもみなの最大の関心事だったから、情報は加速度的に伝播していった。ことに、アンテナを張りめぐらせているスパイには、噂ばなしで充分であった。あわせて、偽情報流布装置も効果的に作動したのである。
 秘事めいた工作のかいあって、天下りで入社したために愛社精神が希薄な二人の盗聴犯をすぐに見つけだせた。処分はこれみょうがしに上層部に任せ、そのあとも偽情報を流しつづけた。おかげで、納入業者に身をやつしていたスパイ三人も見つけだし、以後、偽情報におどらされるうごきは終息したのである。ちなみに排除はしなかった、かえって怪しまれるから泳がしたのだった。
 というのも基本的に、彦原に不安はほとんどなかったためだ。かれが大騒ぎまでして偽情報を広めたのは、アリの一穴というちいさなほころびすら存在させてはならないという、細心すぎる用心のせいであった。
 たしかに、世界が驚天動地する発明だからこそ、盗ませるわけにはいかなかったが。
 しかし杞憂となるほどに、隔離され完全密閉された肝心の巨大メイン工場のセキュリティは、完璧なものだったのである。
 それで、ここの最重要機密の核心が外部に漏れることは一度もなかった。
 巨大工場内にはいれる人間は、CEOは別にして、最高責任者の東専務と研究開発に直接携わる彦原チームだけであった。
 日々進歩のAIにより、工場内で組立や運搬作業などの実務をしているのは、すべてロボットだったからだ。しかも、たとえ社内からであっても、メイン工場内のコンピュータやロボットにアクセスするには、彦原がつくった複雑な専用コードを入力しなければならない。
 つまりかれの部下といえども、工場外からだとアクセスはできないというわけだ。
 まして部外者がAIから情報を盗みだすなんて、天地をひっくり返すほどのパワーをもってしてもできない相談であった。彦原理論のデリケートな計算式の一部をコードに組みこんだために、かれ以外は入力できなくなっている。もっとも工場内にいるかぎり操作は可能だから、研究開発に支障はまったくなかった。
 しかしそれでも彦原は、気を緩めないよう部下たちに指示したのである。