ポタポタと雨の滴を落とす折りたたみ傘と濡れたコンビニのレジ袋は右手に、安物のショルダーバッグをば左手に。つまりそれらが彼女の両手をふさいでいたのである。ショルダーバッグを左肩から提げるかたちで左手をあけておれば、惨事を防げたかもしれない。おそらくキーをすぐ出せるように手に持ち、ぶら下げていたのであろう。加えて、毎日昇降する慣れた階段という安心感もあったのかもしれない。
しかし、彼女が上っているその階段も雨の滴でかなり濡れていた。これも誘因となった。
気疲れもあり普段より長く感じたが、残すは一段のみとなっていた。途端、想起できようはずのない自分の名を呼ぶ男の真剣な声が、下から発生したのである。
――えっ、誰?――思わず振り返った……。
二十分後、その女性の死体が階段踊り場で発見された、荷物を床に散らかしたままで。
強い酒を帯びた青年は、深い眠りの渦の中を無為に漂っていた。それは薬が作りだした人工的な睡魔のせいであり、二度と光の射さない闇の底へと誘(いざな)う危険な眠りでもあった。
昏睡からの二十分後、今はうつ伏せの全裸の彼、大きな湯船に静かに漂っていた。否、彼の死体、が正確だ。傍らには、体を拭きながら死体を見下ろす中年男性の全裸があった。
さらに数分後、冷たくなった青年はなぜか、今度は風呂場の床に仰向けに横たわっていた。そして着衣の、同じ中年男性が携帯で119番通報をしていたのである。
高級車の後部座席から、いい身なりの四十代男が降り立った。右手の革製の鞄は、男の実相・実体とは対照的に上品であった。
左手で左後部ドアを閉め、歩き出そうとしたそのとき、ごく微かだが、空気を切り裂く鋭い超音速の音がした。直後、”パン”と何かが弾けたような乾いた音…。
初秋の夜、閑静な住宅街には似合わない銃弾の飛行音であり、続いての発射音だった。
男の額の真中から紅い液体が噴き出たのはその直後であり、一瞬のことであった。断末魔の声を発することもできなかった男は全身の力を喪失し、その場にくずおれたのである。男が、ただ口から発し得たのは被弾時に、「うふ」という空気が洩れた微かな音だけだった。
そのかわり、運転手を兼ねた女性秘書の悲鳴があたりを圧した。数瞬後に、であった。
数分後、少し離れた所を小走りしている若い女性がいた、手に長いケースを持って。
それから九日後のことになるのだが、父親と母親が愛娘を手にかけてしまった。殺意のない、不幸な悲劇だった。誰もがそうとしか認識できない事件であった。
しかしこの悲惨が、以上の、一連の殺人劇等の幕を引くことになったのである、しかもようやく。
そのような事、加害者である両親は全く知る由もないまま、ただただ自責したのだった。
世の出来事の、それらの因果関係の存在すら知らず見過ごしたまま、ひとは日常に忙殺されて日々を過ごしているのではないだろうか。因と果の不二の関係に深慮することなく。
とここで、あえて穿(うが)つとしよう。人も物事も上っ面を認識しただけでは、実相には到達しえないものである。あえて云えば、譬えは卑近でしかも今いちだが、鶏卵のごとしだ。
触ったくらいでは表面の微かな凹凸に気づく程度。顕微鏡で調べて初めて、気孔に気づけるのだ。一卵か二卵か等を含む中の状態を知るには割るがよく、将来を見るには、有精卵を保温する手間が要る。すればやがて、新しい命であるひよこを目の当たりにできよう。
「何ごともかくのごとし」真相に到達するまで、徹して深層を探らねばならないのである。