これほどに苦衷のみが満ちた心情にあっても、両親には決して告げなかった、経緯の一切を。完全に黙していたのは、俊子の死だけでも父母は打ちひしがれているのに、その心の傷に塩を刷り込み苦しみを増幅させるマネなど、とてもできなかったからだ。そっとしてあげることが、せめても親に対する思いやりだと信じたのである。

警察でのあまりの仕打ちに絶望した拓子だったが、数日後、諦めるにはまだ早すぎると思い直した。そこで、
ネットで検索し、大阪で一番大きな弁護士事務所に相談しに行ったのである。人材を豊富に抱えているに違いないとの素人としては当然の判断をしたからだ。
だが現実は、大きければそれだけ経費がかさむいっぽう。景況の低迷が長く続いたせいで収入が落ち込み、経営は苦しくなっていたのである。そこを選んだ彼女にはなんの過誤もないのだが、刑事事件を扱ってもたいした収入にはならないという現実がこの事務所を覆ってしまっていた。高報酬の民事事件のみを扱う偏重主義だけが自らを救いうるのだと。
一件当たりの報酬が数倍から数十倍、高くなるからである。つまるところ、当てられた弁護士は成り立ての若手だった。彼は慇懃な態度ながらいの一番、算盤を弾いたのである。
これで、彼女がどんな風に遇されたか、言わずもがなであろう。
親身な応対のはずもなく、通り一遍、曽根多岐警察署の警察官と大同小異を述べたのである。事務所経営の裏事情に無知だったとはいえ、拓子には不運としかいいようがない。
客に対するまさかの扱い、そのおざなりぶりに拓子は腹を立てた。思わず詰め寄ったのである。「一市民の訴えでは動かない警察を動かせるのは、法律の専門家である弁護士さんだと、そう信じてここに来たのに、どうして何もしてくれないのですか」
「まあまあ」落ち着くようにとの意で、上からの声であった。「残念ながら我々に捜査権はありません。捜査のノウハウに関しても精通していません。また、警察を動かせる手だても持ち合わせておりません」次の言葉を発するまで数秒の間があいた。「これは僕の実感ですが、法律というのは第三者のようなものだと。相反する二者のどちらにもまずは与(くみ)せず、違反や不当行為のなかった方の味方になる。ただし違法を証明できなければ法律は味方してくれません。つまり、少なくとも犯罪行為を疑うに足るだけの証拠がいるのです」

ここでも絶望の壁を仰ぎ見なければならないのかと、悔しさのあまり唇をギュッと噛んだ。次の言葉が出てこなくなってしまったのである。思わず涙がこぼれた。
さすがに気の毒だと同情した弁護士は、「この映像を手に入れることのできた貴女だ、目撃証言だって入手可能でしょう」と。しかし所詮、他人事だった。「たとえばですね」
「言われなくても、撮影なさっていたご夫婦に伺いました」涙目のまま唐突に口を開いた。「しかし覚えていない、というより、男がベルトを持っていたことすら気づかなかったとおっしゃっていました。だからといって諦めきれません。それで、新婚旅行の同じツアーの方を照会してもらいました。でも、結果は同じでした」嗚咽が、喪失感の肩を震わせた。
「……」弁護士は、テーブルに打ち伏した紅涙の美女になす術なく、ただ座視していた。

今度こそ、依(よ)る術(すべ)を全て失ったと肩が落ち、やがて心は凍結していった。だから、大阪地方検察庁に直接行くという知恵は湧いてこなかった。高校卒業と同時に離日したせいで日本の世事に疎く、そこまでは思い浮かばなかったのかもしれない。
しかしどうだったであろう?足を運んだとしても、取り扱ってくれなかったのではないか。殺人と想定できるだけの証拠が希薄すぎるうえに、最重要な同盟国との間で小さな外交問題に発展することは想像にかたくない。三権分立とはいえ、検察の幹部は、《火中の栗を拾う》の愚だとの政治的判断を下すだろうからだ。その判断は、純粋に国益だけを考えてのものではないだろう。検察官自身の立場も考慮したうえでの断となったであろう。
いずれにしろ、拓子の心はぽつねんと果てない闇夜の中、生きる気力などあろうはずなく浮遊していた。身体(からだ)は夢遊病者のように呆け、時間だけがその上を過ぎていたのである。
母親は異変に気づいた、むろん、娘の懊悩の真因を知るわけではないが。優しい言葉を掛け、励まし、元気になってもらおうと陰に陽にあれこれ腐心したのだった。そんな心遣いが功を奏し、また、親に心配を掛けることは不本意と思ったこともあり、食欲は相変わらずなかったが、母親の手料理を胃に押し込むようにして食べ、部屋に閉じこもるのも止めた。そして、母親と一緒に散歩をし、数日後には共に街へ服を買いに出かけたりもした。
元々、本意でなかったとはいえ活動したおかげで、身体だけでなく心にも精気が蘇り始め、数週間後、やっとのことで両親を安心させるまでになったのである。
肉体的疲弊から復活したことで、拓子の萎えきっていた精神に変化が生まれた、総てにヤル気を失っていたことがウソのように。
こうして日にちが経過するほどに、それが頭をもたげ始めたのだ、……復讐心がである。
涙は枯れ果て、水分を失った心に、復讐の焔がメラメラと立ち上がっていったのだった。
別の見方をすれば、理性を消滅させる絶望が心を完全に支配した拓子だからこそ、妹の復讐を誓えたのである。肉親愛という、法よりも情に棹さした結果の復讐心は、法に見捨てられたと思い知ったせいであり、他に手段を、完膚なきまでに失ったせいであろう。

結果の、姉が企んだ復讐……。だが、それは最も邪悪な犯罪であった。
――実行するからには――命を奪うだけでは妹の心の安寧は得られない、と。さらに自分の静謐(せいひつ)も、だった。拓子が死者に鞭打つ恥辱を与えたのは、性欲のはけ口に妹を利用したことに対する報復の意味を持たせ、愛情を裏切った酷薄非情な男だと世間に宣言し、あるいは周知させたかったからだ。それだけでなく、
向後の女性が男選びするうえでの思量の普遍的資料としてもらうためだった。――見てくれや地位などではなく、愛情に対し、あらゆる意味で応えてくれる男を見つけるべし――との、拓子が世間に向け発したこのメッセージは、受ける側の女性の感性が鋭敏なら、きっと伝わるはずと信じた。不幸にさらされる女性は、金輪際、妹までで「もう充分」だ。
俊子をせめても、犬死にはしたくなかったのである。

ところで…、「あっ」と、映像を看視していた矢野たちが息を呑んだのは、一瞬、映った男の顔が、XXホテルでの全裸絞殺体警部の生きているそれだったからだ。

こうして事件は概ね解決した。ただし、矢野たちがもはや知りえないことも残った。

今となっては、憶測や推測しか手はないのだが。ひとつは、妹の恋人を、拓子がどうやってエリート警部と特定できたかである。次に、誘い出した手口、もしくは会うことを強要したときに使った口実の実体だ。さらには、他にも。
以下は、矢野が考え抜いたその憶測である。
映像には一瞬だったが、顔は映っていた。しかしそれだけではどこの誰(だれ)兵衛(べえ)だかわからない。かといって、妹の俊子が拓子に直接伝えたり何某(なにがし)かのメッセージを残していたとは考えにくい。正体を知る手掛かりがあれば、もっと早く殺害していたはずだ。つまり、他に何の手掛かりもなかったから、映像入手後も、復讐までに時間が掛かったのだろうと。

今回もソーシャルメディア、つまりは拓子が得意とするネットの掲示板などを利用したに違いない。人物を特定する手段として、最も効果的だったであろうからだ。

人を特定したい場合、美談に仕立て上げてその恩人を捜しているとでも書き込んだうえで写真を併載し、謝礼をしたい旨でもって締めくくればいい。ニセ情報も多く返ってくるだろうが、なかには有力情報を返してくる人もいるだろうからである。
たとえばこんな作り話。
今は亡き母親が数年前、旅行の途中で財布を失くして困っていたとき、二万円をそっと出して「これ、使ってください」と言ってくれた男性がいた。あまりにありがたかったので、芳名と住所を聞き携帯で写真を撮った。むろん返金と、あわせて謝礼をするために。
時はたち、死の数カ月前、「あのときは本当に助かった」と母親。病床にあって繰り返し感謝していたが、認知症を発症したためにその方の素性を全く覚えていなかった。それからまた時は流れ、やがて初七日が終わった。母親の供養のためにと親族が、再度の謝礼をすべきだと。そこで住所録や携帯に取りこんでいた情報を調べたが、該当しそうなのは見当たらなかった。「困りはてた結果、ご協力願いたく掲載しました。写真を見て、知人のなかにお心当たりのある方、教えていただければ幸いです。どうかよろしくお願いします」

こんな内容を、中(あた)りが出るまで繰り返し掲載すれば、やがてはヒットしたのではないか。もちろん、他の方法を用いてもできただろうが。

いずれにしろ情報提供者のおかげで、時間は掛かったが犯人を特定できたのである。おかげで、エリート警部は醜態を世間にさらす破目になった、地獄に堕ちたあとも、だった。
次の疑問だが、脅しをかけて会うことを強要したとみた。
ステーキハウスでの、卑下したような警部の態度から推して、拓子が発したのは、おそらく脅迫めいた言葉ではなかったかと。当然、最初は電話でである。自宅の電話番号を調べるための口実を、警戒されにくい女性ならばいくらでも用いれたであろう。
「お前が犯人であることはわかってる。ある日本人観光客から証拠映像を入手したから言い逃れはできん。否認するなら、証拠映像を報道機関に持ち込むまでや。けど私もバカやない。そんなことをしても、俊子が生き返るわけやないから。それに、妹を返してくれとも言わへん。ほんまはそう食って掛かり、お前を困らせたいけど…。でも、涙を呑んで、あんたを許してもええとも思う。ただしどうするかは、あんたがみせる誠意次第や。詳しいことは、会ってからにしたいが、あんた、どうする。会うの、それとも会わんつもり」

突然脅迫された警部は、寸刻深慮したはずだ。映像を撮られていたことは紛れもない。その映像所持が事実ならば、転落させるために俊子を誘導した言葉も入っているであろう。公開されれば栄達を含む総てを失うことになる。最悪に堕するに違いない。まずは会って、映像を吟味する。それで、証拠が映っていれば、何としてでも許してもらわねばならない。
だがもしダメだった場合…、警察官にあるまじき蛮行を繰り返したのではないかとも。

こうして対面することとなった。果然、堕地獄への扉に手を掛けたのだ、二人ともが。
さらには、知りえない脅しの具体的内容。つまり、拓子がステーキハウスで警部と交わしていた会話の内容だ。これも、推測・憶測の類いとして部下に語った。

皆は聞きながら、情景を頭に描いた。

「否定すれば、身の破滅を自身に招くことになるわ。だからまずは素直に認めなさい。そして当然のこと、謝罪もしてもらう。両親にも」むろんウソである。両親に、俊子の死の真相を告げるつもりなどないからだ。「そして俊子のお墓にもひれ伏すのよ」
「その前に証拠の映像を見せてください」と、警部は主張したであろう。ハッタリに騙されるのは何としても避けねばならないと思いつつ。
「見せてもいいけど、映像を取り込んだパソコン、ホテルに置いてきたわ。でもコピーだから、バカな考えはダメよ。私に何かあれば、友達が警察と報道機関にマザー映像を持ち込む段取りだから」強気に出ることで証拠映像の話を信じ込ませ、同時に、殺させないための自衛策を採ったとも思わせるべく、聡明な拓子ならこれくらいの巧妙なウソの防御網を張り巡らしたに違いないとも推測した。自衛策云々も、話全体を真実足らしめるためだ。
とにかく睡眠薬を飲ませ部屋にひき入れれば、あとは彼女の思惑どおりに進むのである。
「あんたみたいな奴、相手はどうせ出世絡みなんでしょうね。事件の前に何があったかまでは知らんけど、とにかく俊子が邪魔になった。だからって、殺すことはなかったでしょう!」完璧と思える計画を立てた拓子だ、結婚相手もその目的も調べ上げたとみていい。
それに対し、警部は答えなかった、というより答えられなかったはずだ。殺害を認めることになりかねない、だから、黙秘か忌避を謀(はか)ったに違いない。
拓子は姉として、それでも強硬に追求したはずである。
「何とか言いなさいよっ!」鋭利な視線とともに、声は小さいが先の尖った言を射った。
「予断や当て推量での殺人者扱いは迷惑このうえないです。ともかく、証拠とやらの映像を見せてください」と、警部はあくまでも主張し続け、態度を変えなかったと思う。
彼女も警部の頑なを予測していたであろう。それでも計画を果たすため会話をもたせた。酔わせ、なんとしてもトイレに行かさねばならない。だからだ。「いがみ合ってるばかりだと折角の料理が。それに他のお客も変に思うから、グラスのワイン、飲んで。さあグッとあけましょうよ。お互い、もう立派な大人なんだし」睡眠薬を飲ませるタイミングを作るためには時間を稼ぎ、利尿効果のある酒を度を過ごすほどに飲ませ、尿意をもよおさせる必要があった。「もう一杯いかが。それにしても俊子が大好きになったの、わかる気がする」

酒が、男の不埒スイッチをONにしたかもしれない。この女も抱いて俺の魅力にのめり込ませれば、あるいは軟化するかもしれん、などとバカげた甘い想定をしたとも。

一方、「場合によってはこれを不問に付してもかまわない。あんたが心から悔い改め、命日には必ずお墓参りするなら」くらいのウソの甘言を洩らしたとも考えられる。目的は報復なのだから、それまでは少しでも希望を持たせ、油断させる必要もあったであろう。
以上の推測等に、大きな間違いはないだろうと言った。彼の独壇場であった。
くどいようだが、あくまでも推測でしかなく、もはや裏付けをとることは不可能なのだ。
ところで矢野警部。自らが口にする普段の禁を冒し、それでも推測を披露したのは、事件が一応の解決をみ、冤罪を生んだり、予断や思い込みに陥る心配がなかったことと、長年培ってきた心理捜査法で真理の探究ができることを、部下たちに教えたかったからだ。
彼の心理捜査法とは、事件を起こすのは人間であり被害者もまた人間であるから、それぞれの気持ちになってなぜ事件が起きたのかという動機はもちろん、その背景までに思いを巡らせる捜査手法のことである。
これを応用すれば、犯人特定に役立つだけでなく、身元不明の被害者の人物特定につながったり、凶器の隠し場所捜査など、いろいろな局面で捜査力を発揮できるからだ。そのためには人間観察力や洞察力、想像力などを徹底して養う必要があるのだが。
心理捜査法――むろん、後付けではない証拠の裏付けが必要なことは論を俟(ま)たない。
「そう、まさに報復やった。そやから拓子は絞殺を選択した。妹が溺死、つまり窒息死した以上、同じような死に方で、せめても同程度の苦しみを味わわせ、思い知らせてやりたかった。ホテルの湯船で溺死させたかったというのが、あるいは本音かもしれん。しかしいくら睡眠薬で眠らせているからといって、また手足を縛ったからといっても、非力な女性にはベッドからの運搬は困難だし、相手は若い男性、しかも日頃から格闘技の訓練を積んでいる刑事、まかり間違って途中で覚醒したりすれば逆に自分が大変な危険を伴う」
「なるほど。女性ひとりで、大の男を湯船にまで引きずっていくのは、正直きついでしょう。まして、中に入れこむとなると。女性だとできてもせいぜい、浴槽の縁に上半身をもっていき顔を水中に沈めるくらい。しかしその方法だと、呼吸困難の苦しさのゆえに眼を覚まし、反撃されないとも限りません。両足を折り曲げた位置を利用して蹴りあげられればひとたまりもなく、さらに、もみ合っているうちに、自分の方が床などに頭をぶつけるという不測の事態が起こる可能性もありますからね」藍出も想像を逞しくした。

そして和田のみならず、絞殺を殺害手段としたその理由もなるほどと了解したのだった。
「あのぅ、婚前旅行のつもりだった妹の俊子が」その話題ならすでに終わっているし、タイミング的に鑑み場違いやぞ、というようなことを尋ねてもいいのかなと不安げな西岡だったが、それでも「ベルトらしきものを命綱だと信じ込んだのはわかるのですが」ナイヤガラの滝観光において、溺死に潜む背景に、ある疑問を持ったので、矢野に教えを乞いたいのである。「ベルトが確実に切れないと、あの男は目的を達成できないわけですよね」強い正義感が、全裸で殺害された被害者であり、しかも身内にもかかわらず「あの男」と侮蔑をこめて、この男に言わしめたのだった。
「つまり、こういうことか」矢野は新米刑事に対し、忖度しつつデカとしての力量を測ることにした。「ベルトが確実に切れる工作をどうやってしていたのか。予め切断しておいたベルトを切れていないように、セロハンテープで繋いだのでは…。いや、いくらなんでもそれではバレるやろう、と」こう、わざとボケた憶測を開陳したのである。
「いやぁ、さすがにそれはないでしょう…。僕が思うに、ベルトの切断面に瞬間接着剤を塗布し」
「まあ、そんなところやろ」矢野は、質問の内容もだが、瞬間接着剤を使ったのだろうという、自分と同じ推測をしていた西岡に満足した。「さらにいえば、思惑どおりになるよう、切断面にそれをどれくらい塗布すべきか、何度か実験しその加減を決めたのでは…。僕が犯人ならそうするさかいな」

ところで、矢野も部下たちの誰もが口にしなかった、拓子の血肉の情を一同、秘かに憐れんでいた。犯罪を許すことはもちろんできないが、止むに止まれぬ心情に同情を禁じ得なかったのも真情だった。人情であった。

そのあとのこと。証拠品を返却するにあたり、父親が発した呟くような、沈鬱な声が耳朶から離れることは生涯ないだろうと、矢野警部は心涙に胸中むせながら瞑目したのだった。

その呟き、“拓子が犯人だったと、なんで暴いたのですか!今さら…。あの子も、もうこの世にはいないんですよ。…鞭打つなんて真似をどうして……”というような恨み事や憤りの言ではなかった。胸ぐらをつかむようなこともしなかった。
むしろ、その方が矢野には楽だったかもしれない。しかし事実は。
「私たち、これから、何を糧に生きていけばいいんでしょうか……」

その姿に眼を伏せた矢野は、このとき、掛ける言葉を見つけることができなかった。