現代でも似た構図として、秘書や部下が自殺することで疑獄事件は暗中へと。 “トカゲのしっぽ切り”との報道にて幾度となく、くやしいが、世間はその耳目にふれてきたとおりである。
それにしても秀秋の死において、打つ手はあったはずなのに、けっかは唐突に…そうみえるではないか。ならば、家臣団の無為無策もひとつの因といえるようだが。
ところがさにては候らわずで、じつは無為でも無策でもなかったのである。決して放任してはいなかったということだ。
文献を紐解くとわかるじじつ。それは必死の家臣たちのうち、杉原重政や松野重元、稲葉正成、滝川出雲などが諫言をし、そのせいで重政は上意討ちにより死を賜っている。それを知ったすくなくともほかの三者は“乱心の主君に仕えること、なりがたし”とて、出奔してしまったのだ。後年、復帰をしたものもいるが。
十重二十重(とえはたえ)の諫言を浴びていた秀秋。本来ならば反省し諫言をうけいれるべきだった。
にもかかわらず、主の命により重政は“死”をこうむった。
となれば、もはや正気をうしなっていたと、そうみるのが、客観的に自然である。
で、いわく。肝硬変が悪化したのだろうし、ならば、判断能力を劣化させる“肝性脳症”をも併発していたとおそらく。現代の医師ならばそんな診断を。
西軍をうらぎって大谷刑部の陣をうしろから攻めたのは、肝性脳症が原因だとする説もけだし。
ただし、ボクは首肯しない。肝硬変の悪化と肝性脳症がじじつならば、それなりの文献が残っていないのはおかしいからだ。
医師にすればじぶんが無能や無責任でないことをしめす必要があり、よって、二年前の二度目の診察以降も秀秋が暴飲を継続したのは、それは“自己責任”だと突きはなすか、すくなくとも“例をみない急変による突然死“と、後日しるすが、得策だったであろう。
ともかく、悪化は忠告を無視したからであり、また、それが事実でしょうと責任の所在を明記しつつ、証拠としてのこしておくにしくはない。
いっぽう重臣にすれば、上意討ちの前後に良策を乞う書簡をだしていたはずだし、名医にとっても、大大名の病状悪化はじぶんへの世評に悪影響をもたらす由々しき事態にちがいない。
往復書簡などで献策をしていた、いやしなかったはずがないと、ボクはみる。
ところが現存していない。だったらそんな書簡など、もともとなかったからだろうと云々。
よって、肝性脳症どころか、肝硬変の悪化すらもなかったと。ボクはそちら側に立つ。
さ~て、ここまでのわが浅識と愚論に終止符をうつべく、水戸黄門の“印籠”ではないが、ようやくここでボクなりの、変死説の決定打をうとうとおもう。
死の三日前のことである。秀秋はなんと、鷹狩りをしていたのだ!
かなりの運動であり、瀕死の病人には、とてもじゃあないがムリ。元気なひとにもハードだという。ボクには経験はないが、じじつそうらしい。獲物をとらえるべく飛翔する鷹をおい、馬上にて山野をかけめぐるのだから。
くわうるに鷹狩りは、家康が推奨したように、合戦のための訓練でもあったのだ。
“鷹狩りは訓練”、これはなにを意味するであろう。
すくなくとも病は改善されていた、が自然な憶測である。まして肝性脳症説など、いかがなものか。
ならばなぜおきたのだ、いうまでもないが、突然死が。
でもっての、さらなる不可思議。変死の疑惑をつよくせざるをえない取り潰しの、その理由がまさに、それなのだ。
江戸初期、ちなみに小早川家断絶はそれより一年以上まえながら、徳川家による初の処断であり、これを前例として、以降、無嗣断絶という処断はなんども下されている。
だがいっぽうで、取り潰されていない大名もあったのだ。
広島の浅野本家(あとにのべる浅野幸長の死後のできごとで、じつはこの当時は国替えまえにあたり、和歌山の城主であった)や米沢の上杉家(1664年、嫡子も養子もいないまま当主が急死するなど、なぜか、男系断絶傾向がある大名だ。ところでこのとき養子となったのが有名な吉良上野介の子息であり、また後年のはなしだが、ケネディ大統領が称賛した治憲=鷹山も、秋月家からの養子である)など、いくつかあるというじじつ。
しかも上杉家は、重臣の直江兼続と三成とが蜜月関係にあったことにより、関ケ原の前夜、家康を討とうとしたという過去に重大な来歴があった。またいっぽうの幸長は、豊家を守ろうとした人物だ。
にもかかわらず、それでも改易されなかったのである。
とりなしてくれる有力大名がいたからではあるのだが。ただし上杉家は、三十万から十八万石へとの大幅な減封処分をうけてはいる。
となると、小早川家にたいする理由だが、まったくもって薄弱となる。
家康や徳川家に、最大級の利をもたらしたことは周知のじじつであり、ぎゃくに加害したという事実などないのだから。
さにては候わずの、無嗣除封。