宗永はもともと秀吉の家臣で、しかも目付け役でもあるから、つよい立場にいた。“物言う”家臣いじょうの存在であり、秀秋からすればスーパー“目のうえの瘤”だったということだ。
またほかの家臣にとっても、(1603年、家康が征夷大将軍となり徳川政権が確立する、まだ三年ちかく前であり、くわえて豊臣家はもとより健在であった。だから徳川に面従する必要性を、どこまでかんじていたかは疑問だ)流血をともなうがごときお家騒動がおこったとして(じじつ、秀秋の命により重臣が上意討ちされている)、それよりもお世継ぎ不在のほうが、よほど深刻だったにちがいない。
理由ならふたつある。
他家のはなしだが、後継者をきめないまま謙信が病死してのまもなく、有力戦国大名である上杉家で、家督相続をめぐり内乱(1578年御館の乱)が勃発したのだ。
現在とちがい、情報の質量ともにとぼしい時代にもかかわらずそれでも、家を二分し流血に流血をかさねた大事件として、二十年以上たった当時も世間の記憶にあたらしいからである。
でもって、肝心の小早川家。当家は、二代つづけて他家からの養子により家を存続させてきたのである。まさに、異常事態そのものだ。
本来の血筋は、すでに途切れてしまっている。ならばしかたなきことだと、現当主の血流でいいから、それを継続させねばならないと。つまりはお世継ぎづくりこそが当面の、そしてこのうえなき命題だったのだ。
さらには、まだこの時期だからこそ、小早川家を固める必要があった。ゆえに、頼りなげな若当主が酒浸りのままで、いいわけがなかった。
情勢からもあきらかだ。前当主の隆景ならば、お家を任せられる優れた武将であったが、いつ、おおきな戦が勃発し、それに巻きこまれるかわからない日々が続いている。天下は、いまだ不安定なのだ。
たしかに関ケ原において、家康はかれに敵対する勢力には大いなる勝利をした。だが天下人としての、不確定要素はまだけっしてすくなくないのである。
資金や領地、さらには恩顧の大名の数においても遜色ない豊家の存在が第一だ。南北朝時代を例にするまでもなく、世に二君は、災いのもととなるのだから。
ついでいえば、北から京(=天下)をのぞむ伊達家とてブキミな存在だ。また、南にて強兵をほこる薩摩も、徳川の軍門にくだったとまではいいきれない。関が原において“島津の退き口”とよばれる敵中突破により、たしかに、島津豊久をはじめ優秀な人材をおおく失ってはいるが。
それと、黒田如水だ。天下をとる力量を有する人物ならば“孝高こそ”と、秀吉が家臣にかたったとする逸話は別としても、関ヶ原での戦が長期化していればその隙に、九州を平らげ中国地方にも攻め入るつもりだったとの旨をしるした手紙がのこっており、じじつ、版図をひろげる戦をおこしている。
よって、明日、どんな戦乱にまみれるかしれないそんな危なげな天下…、というより、いまだ乱世の真っ只なかなのだ。
だからこそどんな状況に陥ろうとも、つまりは天下の趨勢などよりも、大名の家臣にとっては一にも二にも、主家の存続と安泰が第一なのである。
にもかかわらず他家からきたこの不出来な養子は、秀吉の死後、箍(たが)がはずれたがごとく過剰な飲酒をつづけたようだ。食欲不振や高熱、嘔吐、黄疸(重篤化?)などを発症したと、文献「医学天正記」には、時をおいての悪化をしめす記述がある。
この、二度目の診察をうけたその所見からも、極楽とんぼぶりを読みとることができるのだ。
曲直瀬玄朔はだからこそ再診のけっかから、飲酒をさせないよう家老たちに進言しなかった、はずがない。名医でなくとも疾病の原因をとりのぞく、それが務めだからである。ましてやかれは、歴史にその名を遺すほどなのだ。
そうとなれば方途に万全をつくすが、先々代や先代からの家臣たちの、まさに責務であった。まだまだ戦国の世なればこそ、断酒療法として、座敷牢に押しこむというような荒療治も、たとえばその一手であった。
完治させたあとで、主君の意にはんした咎の責めとして家老が切腹すれば、お家の存続が第一の時代だから、それですむのである。むろん、その重臣の家の存続をもはかりつつの。
だがはたして、文字どおりのそんな滅私奉公の奇特人がいるのだろうか?
答えならば、あにはからんや、ひとりやふたりにあらずと。
主家をまもるために切腹した例としてでも、秀吉による備中高松城水攻めのさいの、城主清水宗治の殉死(既述)はそのひとつとできる。既述したが、ほかにも千利休・豊臣秀次も秀吉の命に従ったとはいえ、あえていえば主家のために切腹や自刃をしている。本音はむろん、自家や家族を守るためであったが。
ただ、秀次が犬死におわったのは、お気の毒に…、ではすまない話しだが。