ここでも、横道にそれる。
前者集団はのちに武断派と称され、関ヶ原の合戦のおりには、豊家を裏切り、こぞって徳川方についてしまった。豊臣恩顧の武断派たちは、これを裏切りとはおもわないかもしれないが。
それでもあえて言う。鬼籍にいった(死んだ)秀吉を慟哭させたことに、異議をはさむ余地などないはずだと。
それはそれとして、遡(さかのぼ)ること、影武者(蛇足ながら、いまもなお白日夢の渦中である)秀吉の命による文禄・慶長の役(朝鮮半島への出兵)のおり、過酷、では軽すぎる、血みどろの戦にあけくれていたにもかかわらず、艱難辛苦のなかにいる前線の武将たちにたいする天下人の評価はひくかった。
それを、“小賢(こざか)しい佐吉”の讒言(ざんげん)のせいだと、武断派たちはおもいこんだ、あるいは、こもうとした。でもって、恨みをいだいたと、そう、ほとんどの歴史家はしるす。史実として、裏うちの文献もすくなくないからだ。
だけでなく、さらなる掘りさげかたをする学者もいる。いわく、恩をうけた秀吉に文句をいえないぶん、かれらはかわりに、寵愛の三成に恨みつらみをむけ、そして憎んだとする見解だ。
そのうえで、舞台裏にて、家康の謀臣本多正信が画策して対立をあおり、確執を決定的にし、やがて、家康が機に乗じて天下をうばったと、これも多くが。
もちろんそうなのだが、とくに清正は、家康の肚の底を読みきれないていどの人物だったから、徳川方に乗せられて、_殿下お気にいりの佐吉めが、豊家を乗っ取ろうとしている_とそんな、愚かで、じじつと真逆の判断をしたのかもしれない。
すくなくとも、佐吉憎し!が清正のこころを覆いつくし、冷静な分析や判断ができなかったのだ。そこをつかれ、古ダヌキに利用されてしまった。
むろん、ちがう見解もある。清正は、天下を徳川にわたすことを認めつつも、秀頼公の安泰をねがっていたと。豊臣を、一大名として存続させればよいと思ったのだと、そう。
しかしそれを、家康が良しとするとかんがえていたとしたら、なにもわかっていなかったとなる。歴史が証明しているとおりだ。
あるいはやがての、豊臣・徳川の衝突は不可避とみて、そのときは秀頼公の幼さのゆえに勝目なしと、清正をふくむ武断派の各大名はふんで、それぞれが自家をまもるために徳川についた、との説もある。
だとしたら武闘派たちのよみ、正しかったのだろうか?
歴史に“たられば”は禁物を承知で、もし武断派が裏切らず、せめても中立をたもってさえいれば、兵力・財力ともにおとる家康は、天下盗りの野望など、あきらめざるをえなかったはずである。
じじつ、秀吉治世下では、能ある鷹になぞらえて爪をかくし、おとなしくしていたではないか。
戦で、家康方が勝利した、にもかかわらず、だ。小牧・長久手の戦いは、たしかに全面戦争ではなく、いわば局地戦ではあったが、その勝利に乗じて、天下をのぞもうとはしなかった。
ところが文献にあるとおり秀吉の死後、家康は縁組み禁止法度(御掟(おんおきて))をやぶり、伊達家、蜂須賀家、福島家などとの姻戚関係をきずき、さらには利家亡きあとの二代目利長にたいし、豊家への謀反のうたがいありとの言いがかりをつけ、大老からはずしたりの画策もしたのである。やり口が汚くおぞましい。
肚は、みずからの勢力拡大と、豊家の力をそぐためにほかならなかった。
徳川の力がまさっていたのであれば、法度破りという禁じ手や、他家を窮地に落としこむような策謀をもちいる必要など、なかったはずである。
また、天下横取りの野望がなければ、後世においてわるい評価をうけるであろう悪手をうつ必要性も、なかったではないかと。
秀吉亡きあとの戦において、戦略、戦術ともに、家康にまさる武将はいないのだ。で、財力はともかく、兵力においては対等以上の立場をもくろんだのだった。
しかし、今はそれをさておくとして、
いずれにしろ、どのような弁解をしようとも、裏切りは裏切りでしかなく、秀吉からの恩顧を仇でかえした逆賊行為とみなされても、しかたがないであろう。