午後一時半過ぎ、矢野警部がデカ部屋に入ってきた、星野警視とともに。
じつは和田が退出した二時間後、星野の執務室に矢野が呼ばれ、ある指令を受けたのだった。府警本部に到着後すぐ部屋に来るようにとの、星野からのメールが入っていたのだ。
二人とも、否、矢野の色白で甘いマスクは特に緊張し、やや蒼ざめていた。村山本部長からの名指しといえる指令を受けたのだが、そのあまりの困難さが蒼白にさせたのだ。
そんな三十分前。管理官は矢野に説明し始めたのだった、貧乏くじに近い指令の。
ある事件を、引き継ぐ形で捜査し解決するというものであった。「ついては、事件の内容を提示するから」と、まずイスに掛けさせた。「例によって、聞きながら調書のコピーに目を通してくれたまえ」星野も座ると概要を説明し、そのあと質疑応答となった。管理官は、調書を持たずに矢野の疑問に答えた。詳細にまで事件を諳(そら)んじていたのはさすがである。
最後に、新本部長より、多少のことは眼をつむるとのお墨付きをもらったとつけ加えた。
多少のこととは、経費や人員導入量の過多の認可を指すだけではなかった。捜査方針や手法の自主性をも含んでいるとのお墨付きであった。そのかわり、「何をおいても事件解決が最優先だ」と、星野は府警本部のトップに釘を刺されたのである。
談合の詰めとして、二人にとっては恒例の捜査方針を話し合ったのだった。
その、星野刑事部捜査第一課管理官だが、百九十センチ近い上背でがっしりした体形、なおかつ太い眉と眉間のキズが睨みをきかす強面(こわもて)だ。だけでなく、切れ長の眼が強烈でしかも鋭い光をひとたび放てば、暴力団員や凶悪犯でさえ縮みあがってしまう、ほどである。ところで晩婚の彼だが、家に帰れば愛妻家で子煩悩、やなんて、誰が想像できるだろう。
働き盛りの四十四歳。準キャリア組の中では、出世の速さは記録的だ。上層部も彼の優秀さを認めている証左である。ただし彼は、出世にはさほど興味を持っていなかったが。
そんな星野が、今が潮時と携帯で呼びつけた。すると待機していたのか、一人の青年が入ってきた。敬礼しつつまずは名前をはきはきと、次に階級を名乗った。警部補だった。
ひとつの係に警部補が三人も在籍するのは異例中の異例やと、星野は笑った。
その笑いの奥を矢野は読み取っていた。加えて目の前の警部補と自分との位置関係も。
それはキャリア組警部補の、彼を鍛え上げる教官役への信頼の笑みであった。和田も藍出も自分の下で鍛えたという矢野の秘かな自負を、さすがの星野は見抜いていたのだ。
「みんな集まってくれ」矢野が、五人の部下に声をかけた。「欠員の補充が決まった。入ってきたまえ」矢野はせっかちな質で、「えっ」とのリアクションをする間を皆に与えなかった。ただ、彼らはそんなやりかたに慣れていた。
警部補へと昇進した部下平野の突然の異動(同じ捜査一課の別の係で定年退職した警部補の補充要員として乞われた)で出来た欠員の補充に、ふた月近く掛かったのである。
一斉に、ドアに視線が注がれた。
「藤浪と申します」入ってくるなり敬礼した。階級では下の岡田・藤川・西岡の三人に対しても、年少者として礼を払ったのである。きびきびした口調で簡潔な自己紹介をし、「よろしくお願いします」で完結させた。
部下の三人は、キャリア組でなりたて警部補という存在を珍しい生き物でも観察するように、じっくりと検分の眼で見つめていた。なにせ、キャリア組の警部補と身近で接するのは初めてなのだ。むろん彼らとて無礼は承知の上なのだが、それでもつい。
ちなみに和田だけが、自己紹介を聞いておやっという顔をした。渡辺直人溺死を捜査した警部補と同姓で、しかもそう多くない苗字だからだ。訊けば、やはり同一人物であった。
「今から捜査会議を行う」星野の部屋で聞かされた、ある事件を解決するようにと府警トップから指令が下された件について、だった。迷宮入り寸前となったがゆえに、強行犯でも断トツに優秀な矢野係を最後の砦と考え指名してきた、そんな裏事情があったのである。
大阪府警察本部長が吐露した「星野管理官を総括に据えた少数精鋭の矢野係に対し、難事件の解決を期待している」を、そのまま皆に伝えたのだった。
まずは情報だが、地取りでかき集めたものが玉石混淆なれど溢れるくらいにある。
あとは、幾多の難事件を解決してきた星野・矢野の名コンビがそれらを快刀乱麻で選り分けるであろう。そのうえで、彼らとその部下たちならば、闇に閉ざされた真相に強烈な光を当てつつ事件を解決してくれるのではないか、新本部長に就任して半年余りの村山知憲は、二人の高名を知るにつけ期待し始めたのだった。
しかし矢野にとっては、そんな期待はありがたくもなければ嬉しくもなかった。むしろ迷惑なのだ。たしかに、凶悪事件を憎み、その解決のためにデカになったのだったが。
それにしてもと、重く圧しかかる期待には閉口する。が、かといって警察の威信をこれ以上崩壊させるわけにもいかない。石に噛りついてもとの決意が、尋常でない緊張を、矢野の心に隆起させたのだろうか。むろん緊張は、指名された以上は犯人を逃さない、――必ず法の裁きを受けさせたる――との強い覚悟の表れでもあった。
事件の概要を説明する矢野の緊張感が皆にも伝播していった。さもあらん、暗礁に乗り上げた困難な事件を引き継いだのである。事件の名称を聞いた刹那、誰もが嫌がる貧乏くじだと、口には出さないが一人残らず実感した。
その事件、和田が星野から渡された調書の中にもあったものだった。星野の部屋を訪ねたあとで思わずした予測は的中してしまった。ただし、矢野係にまさか数時間後襲来するとはさしもの彼も思惑が外れた。それにしてもと和田、因縁めいたものを感じ背中がゾクっとした。何かに憑かれでもしたかのように、自ら調べ始めた事件だったからだ。
そしてこののち、さらに因縁と因果が連続して続くことになろうなどとはこのとき、さすがに知ること能わざるなり、であった。
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