ならばと、当たりまえのつぎの疑惑。

秀長毒殺などはまどろっこしい。それよりなぜ、直接、秀吉を毒殺しなかったのか?そのほうが、よほどに手っとり早いではないかと。                                                                                                                                       

なるほど、一旦は、ごもっともでござると云々。

では逆質問、それで天下を盗れるのか?

奪うには、暗殺のあと、豊臣家をたおさねばならない。すくなくとも、勝ち馬に乗るような付和雷同的勢力ではあっても、ないよりましと味方につける必要が、徳川にはある、現下では形勢不利、多勢に無勢だからだ。

そこでおもいつく具体策だが、それは全面戦争ではなく、局地戦でまずはうち勝つことだ、小牧・長久手の役のときのように。

ではあるが、徳川勢だけで、豊臣家にうち勝てるだけの戦力となっているのか。三河武士はたしかに恐れしらずで屈強ではある。が戦力的にみて、これも、1590年当時だと否だ。

1584年の小牧・長久手の役のときとちがい、織田信雄(かつ)(信長に次男)はもとより、与した紀伊の面々や長宗我部も、すでに豊臣の軍門にくだっている。よって、両軍の勢力格差はおおきくひらいていたのだ。

ひとつ。徳川そのものが戦につぐ戦で、兵糧をあまり増やせてはいなかった。しかも秀吉の目論見により、移封させられたばかりで、徳川の兵糧は底をついていた。

徳川全体、つまり家康は、おおくの側室と子はむろんのこと、それにかしずく奥女中、さらには近習たち、この数百人単位をもごっそりと。で、家臣団は各自の一族郎党ももちろん、一族や郎党につかえる家来と家族たちをもふくめ、一大引っ越しをさせられたのだ。

そのうえで、家康は江戸城大増築をせねばならず、家臣たちも各自住居の整備などで、おびただしい出費となり当然、すかんぴんになってしまった。

のちの参勤交代ていどでも、各大名は、たいへんな出費を強いられ借金がかさみ、藩財政を疲弊させた。それと比較するまでもなく、現中部地方から関東への徳川勢一大移転費用は、えぐすぎたはずと想像できるのだ。

ふたつ。ならば、他者を利用することで、目的を達成できるのでは?だ。

いうはかんたんだが、他者はただでは動いてくれない。道理だ。ではいかに、鼻っ面に美味なエサをぶらさげられるか?なのだが、それも1590年初頭では、不可能のひとことである。無い袖(たとえば報酬)は、振れないからだ。

それはそれとして、秀吉亡きあとに豊臣家は分裂し、天下は乱れる?やも…。

いや、待てよ。肝心なこの点を、検証するひつようがある。

毒殺が成功しても、しかしながら、秀長がのこる。かれには、カリスマ性こそすくないが、実力と徳望で、豊臣家をいっそうまとめ上げるはずだ。秀吉のかげで兄を支えつつ、ともに天下統一に邁進してきた力量を、秀吉家臣団はつぶさに見知っているのである。

よって、豊家は分裂しないだろう。なぜなら、分裂するに、利も理もないからだ。

みっつ。兄弟ともに服毒させられたため、秀長不在(既述)の豊家にたとえなっていたとしても、豊臣政権にとってはいまこそ、危急存亡の秋(とき)と。まさに組織の防衛本能として、大同団結すべきとの求心力が強大化しないはずがない。

組織というものは、外圧にはめっぽう強いのだ。敵は、各自にとって同一の標的だからである。よって、分裂の愚をおかす道理がない。

となると、家康がとれる手立て。一にも二にも、健康管理である。

なぜか?それは秀吉が、六歳年上だからだ。順番どおりとはいかないだろうが、ならば逆に、やり方によっては、じぶんの死期を遅らせることも可能と。

そのための漢方薬づくりであり、体力維持にもつながる鷹狩りなのだ。どちらも、趣味として有名である。

ついで満を持すための、兵糧備蓄、家臣の、戦士としての育成、火縄銃などの武器の量産などなど。そのうえで、秋をまつのである。

そうこうしているうちの秀長の死と、運がむいてきた大事件が。とは太閤秀吉の命による関白秀次自刃、と、朝鮮半島への海外派兵のなかでの戦果争いによる諍(いさか)い。清正と小西行長とのあいだにうまれた確執はその典型である。

さいごに秀吉の、想定どおりの死。ついでの、目のうえの瘤だった、前田利家の死。

これを好機と、豊臣恩顧の諸大名を分断、でもって軋轢の顕在化、さらに狡猾に、武断派と文治派との対立を激化させ、利用しつつ、清正を代表とする武断派をとりこんでいったのだ。

天下を盗むには窃盗的法で。とは窃(ひそ)かにつまり人知れずが、この時点では必要不可欠だったのである。

家康こそ、豊家にとって共通の敵と、とくに血の気のおおい武断派に気づかせないために。どころか、家康こそが、幼君秀頼公の味方であるかのような言動を弄して、だ。

でもって、いよいよ時期到来だと、ほくそえんだ家康。