城をおおいつくした静寂、ピーンと張りつめていた緊迫と息苦しさ、思考が停止したままの時空間。

だがそれも、ゆるやかに緩みはじめたのである。

もはやあとの祭りだが、それにしてもの、前田家ものぞまない、否、あってはならない“事故”、ではあった。

そしてむろんのこと、おわってわけではない。

 それどころかこれからであり、不幸な“事故”でした、ごめんなさいで、かんたんに済むはなしで、あろうはずがない。

こんな最下の災禍、秀吉に、だけでなく羽柴家と、その配下にとってもだったのだ。

ところで、最悪をまだ知りようもない羽柴軍を、今はおく。

まずみるべきは、前田軍であった。五倍ちかい圧倒的な敵兵にとりかこまれている状況にかわりはない。たしかに城は、二重の堀でまもられている。とはいえ平城であり、攻め手からすれば難攻、ではありえない。

つまり戦おうにも、戦力においてすでに、勝敗は決しているの体だ。

それでも援軍がくるまでは城を持ちこたえるぞとの、手をうとうにも、やぶれた勝家軍は各地に雲散してしまっている。もはや、救援をたのめるはずもない。

さらに、城外にてひるがえる馬印から、敵軍副将は秀吉の片腕でもある弟秀長(1591年二月病死、享年五十一歳)としれた。かれは人望もあつく、かつ、知勇兼備でもしられている、相当の人物だ。

もはや絶体絶命のなか、それでも窮地を何としてでも脱せんと、難事中の難、戦闘以外の方途をば見いだすしかないのだが…。