幼き日よりの、武芸の稽古のおかげで仇を討てたわけだが、これで悲憤が癒えたわけではなかった。とはいえ城内にて、公然となげき悲しむことはできなかった。
戦場に身をおく以上は運命共同体であり、戦の展開いかんで喜や怒が錯綜し、哀や楽が渦巻く集団のなかの、ひとりでしかないのだ。
数倍の敵勢にとり囲まれた死ととなり合わせの状況では、誰もがじぶんのことで手いっぱいだった。
まして敵将は城攻めの名人、羽柴筑前守秀吉である。兵糧攻めにあえば、万にひとつも勝ち目はない。だから、個人の感傷など埋没させざるをえなかったのだ。
それに、領主の領地内の各所からつどう地侍たちは、もともとたがいに交流などほとんどしない。まして前田軍は、越前府中と能登の混成隊である。それゆえ、となりで討ち死にした兵士の氏素性をしらなくても、なんの不思議もなかった。
時代の流れのなかで、守護大名やそのあとに登場する戦国大名を領主として、その下に組みこまれただけであって、元来は、先祖伝来の小規模の土地をおさめてきた小領主なのである。
地元にて、もしじぶんたちの領地がとなり合っていれば、境界線をめぐって敵同士、あらそった経験をもつ間柄ですらある。それらの事由で、仲がいいということはなかった。
そんな地侍だが、ちなみに、豊臣秀吉による刀狩(兵農分離政策)以降は士分を取りあげられ、これも時代の流れで、江戸期には庄屋や名主などになっていくのである。
以上の理由から、たとえとなりの若造が悲痛なかおをしていても、気にかけるものはいない。いや正確には、忖度(他人の心裡をおしはかる)するだけの余裕をもてる状況下になかったのである、敵にかこまれている現下なのだから。
それにしても、父親の凄惨な死を間近でみた少年である、かれの心の奥底では、悲嘆がいえるどころか、増幅しつつ鬱積もし、渦巻いてもいたのである。
それが仇への憎悪へと変異し、さらに変化(へんげ)をとげての狂暴が、はけ口をもとめていたのだった、めらめらと燃えあがる復讐心の、そのはけ口を。
そこへのこのこ、父親の仇の主、この戦の元凶がやってきたのである…。
「又左殿(前田又左衛門利家…のちの豊臣政権の五大老、加賀百万石の始祖)、まつ殿(利家のつま)。筑前じゃ、わかるか。もとより、おたがいいがみ合う仲ではなかろう」
織田家家臣として、微禄のころよりとなり同士にて質素な居をかまえ、以来、助けあい励ましあいつつ心をゆるしあった友ではないか、筑前守秀吉はそう言っているのだ。
「太刀をおびてはいるが見てのとおり、単騎でまいった。よって、撃つな!撃つでないぞ。朋友の又左殿に、ちと、大事なはなしがあり推参したのじゃ。門をあけられよ。我ひとり入城ののちはすぐに、また固く門をとじればよいのじゃ」
賤ケ岳の合戦のこのとき利家は、秀吉の敵将柴田勝家の与力との立場にあった。二十三万石の能登領主として、越後以北を平定するために勝家をたすけよと、生前の信長にめいじられたからだった。本能寺の変の前年にあたる。
それはそうと、信長死後の織田家を二分したこの合戦以前すでに利家は、秀吉に内応していた、つまり勝家をうらぎり、「秀吉殿にしたがいまする」との密約をむすんでいた、との説をとなえる学者もいる。
しかしながら確証となる文献は、いまだ発見されていない。
にもかかわらずの、拠りどころとしては、秀吉軍と勝家軍の戦がたけなわだったおり、前田軍は陣をはっていた茂山から独断でひき払い、いわば柴田家与力としての立場を放棄し、敵前逃亡したとするむきである。
よって、退陣のさいの小競りあいは別として、本格的な一戦をまじえてはいないと。
たしかに陣をはらい、府中城にこもったというのは、史実ではある。
しかし敵前逃亡説のいっぽうで、秀吉軍と交戦、二千人はいた前田軍の相当数が討ち死にし、嫡男の利長とも一時(いっとき)ははぐれたとの文献が存在する。
ならば、乱戦になったということだろう。
おもうに、軍配があがるとしたら、この後者のほうではないか。
だとしても、内通の真偽についてはおいておく。
さて、二万の本陣をちかくに控えさせているとはいえ、敵城へ豪胆にも秀吉は、単騎でおしかけたのである。敵をとりこむさいの策として、たしかにこのやり口こそ、若きころからのかれの常套手段ではあった。
人誑(ひとたら)し藤吉郎(秀吉)の、だれにもマネのできない奥義だったのである。
大胆にして不敵な敵懐柔法はしかし、命のほかにうしなうものがなかった小者藤吉郎がもちいた、おのれの強烈にすぎる出世欲を満足させるための最終手段であった。
なるほど、数度経験した命賭けの手錬ではあるが、いまは、天下人にいちばんちかい存在なのだ。そんな危険なマネをと…、
それでも、秀吉にすればこのたびも、慣れた手法をもちいたにすぎない。
いや、こんかいの相手は家族ぐるみのつきあいで、しかも旧くからの友でもあり、昔のように隣家をたずねる気軽さで身をまかせた、という程度なのかもしれない。
ところで、平穏な現代日本とはちがい、戦国時代の武将は、いつ死んでもおかしくない状況に身をおいていたのである。文字どおりの常在戦場、現代からみればそれはまさに、異状な時代であった。
よって現代人が、秀吉のこのときの心境を推しはかるのは至難、ということだ。
ただまちがいない実、それは、このように幾度となくおとずれた死地にあっても、命を落とさなかったという事実である。
主君の信長以上に、強烈にすぎる運が味方をしていたということだ。
一例として、世にいう”金ヶ崎の退き口(朝倉家を攻めていた信長軍は、妹婿である浅井長政の逆襲にあい、信長は危機に瀕し、命からがらの撤退をした)“における、秀吉の殿(しんがり)(浅井・朝倉連合軍が勢いづいて襲いかかってくる攻撃にたいし、防戦しつつ活路をひらいた。おけげで、信長は命びろいをする)としての奮闘ぶりもそうだ。死を覚悟の、無謀な戦において、自軍の犠牲者が思いのほかすくなかったのも、奇跡としかいいようがない。
ところでこんかいは、水魚の交わりのゆえに、油断もあったのだろう、しかも二重(ふたえ)に。
さて、そのさらなる油断。
とは、いばりくさった目のうえのたん瘤、若きころから大きらいだった勝家にうち勝ち、またその以前には、「上様(信長)と嫡男信忠様の敵討ち」をしたとの最高の武勲もあり、次男信雄以下をしりぞけ、織田家の総帥に事実上なったからだ。
織田家中において、実子とはいえ単独では、もはや本気で歯向かうものなどいない、つまり怖いものなし、になったのである。