ということで、今度は二冊だった、暴君たちをしるした書籍が。

“学習室”、前回はそんな名称があることすら気づかずに入室した。が今回は、神経をはりつめさせた人のおおい部屋のふんいきにも動じなかった。

一冊八時間、すくなくとも一人あたり一時間強、合計二日を目安に、さっそく調査を開始したのである。

 しかし結果からいうと、計算どおりとはならず、それなりに満足のいく調査に、みっかと半日を要してしまった。

 というのも、二冊をひととおり読んだあと、暴君のあまりのえぐ味のせいで、だれが誰だったか、あたまが混乱してしまったからだ。

理由ならかんたん、暴君とされる奴らだが、あまりにすさまじかった。残酷すぎて、これが人間のすることかよと、よんでいて正直、胸くそがわるくなるほどだった。

それで叶うならば、これ以上のくわしさで調べたくもなく、触れたくすらなかった。

だがそうもいかず、詳細にすぎる事跡の逐一の書写までは酷こくやし、とてもやないとやめたのだが、洋の東西から一人ずつを、むごさが強烈だったヤツをなんとか思いだし、ピックアップしたのである。

それ以上となると、苦痛で頭が変になりそうだった、からだ。

まずはひとり分を再読し、ノートに書きうつしていく手法を、それで今度はとったのだ、が、

 あっ、そのまえにまずは、豊臣秀吉を暴君とよぶことが正当か不適切かについて、である。意見がわかれるところだとおもう。

ただ、先日よんだ書物によらずとも、大量殺戮の数においてはるかに、天下布武をとなえていた“信長越え”をしていることだけはまちがいない。

とにもかくにも二人ぶんをとがんばって、調査と書写をおしすすめながら、

しかし、ボクがこいつならばとチョイスした暴君が、秀吉の豹変のヒントを提供してくれない可能性だってと、事前にそうかんじてはいた。

そのばあいは、つぎのえぐ味へと材をもとめるしかないか…あああ。まあ、その時はそのときだ。

しかし、である、

もしそうなったとしたら、先がおもいやられるし、ほんま辛い。

だからといって、お母んには勝てない以上、前進あるのみだ。

ああ、それにしても、みたてが甘かった。結論からいうと、のこりの十三人もすべて、となってしまったのだから。

いやはや、先走りがすぎたようだ。

ともあれ、残虐性だけでも希釈しながら。

で…、

まず向きあった、いまわしきその悪名は数多あまたあれど、西洋では、古代ローマ帝国の第五代皇帝ネロこそが、暴君のなかの暴君であろうと。