で、はなしを、天下人まえとあとの人格差にもどすと、
まずは天下布武のもと、北陸、中国、四国の平定をもくろむ信長は、秀吉の調略多用を快くおもっていなかった。毛利家をうつための有効な策、五十万石の大大名・宇喜多直家の懐柔にたいしてですら、最初はどなりつけ容認しなかったほどなのだ。またもや余談。
_秀吉が忠実な僕(しもべ)だったとして、それで、どちらがほんとうの秀吉なん?_を、いくらかんがえても答えはでてこなかった。風呂につかりながらも、このことが頭を占拠していた。おかげで、茹であがりそうになった。
母がようすを見にきてくれなかったならば、とおもうといまでも背筋が凍る。
でもって、あわてて湯船からでたのだった。
エアコンを起動させ、パジャマに着替えてふとんのうえに寝転がった。が、眠れそうになかった。だからといって感想文をかける心理状態でも、まだなかった。おおき過ぎる疑問をかかえこんでしまったせいだ。
同一人物の、その境涯が百八十度転換したからといって、劇的にかわる、いや変化(へんげ)してしまうものなのだろうか?
さて、天下をうばうというスケールがいかほどのものか、などわかろうはずもない小六生。すきな女の子の心もうばえない、はじめてのちいさな恋心にまどうだけの、まだ子どもであった。
懊悩煩悶させられる命題にぶつかり、寝返りをしては自問した。
いかほどの時間がたったかわからないまま、それでも、こたえを母に訊くことははばかられた。かといって翌日以降でも、父はあてにならない。たとえ答えをしっていたとしても、母に緘口令を敷かれているだろうから。
「じぶんで考えなさい」と叱られるのが、おちである。
となると、自力で答えをだすには、じぶんで調べるしかないと。
天下統一前後の秀吉の行動やかんがえ、そのころの時代背景や事件・できごとなどを、明朝(よくあさ)(秀吉が占領しようとしたのは明[国]と朝[鮮半島]、なんてネ…。中学校で日本の歴史をならったときのボクのダジャレ)、図書館にて調べることにした。
知識のとぼしいいまの段階での思慮は、意味のない悪あがきとさとったからだ。
秀吉にかんする調査内容だが、それを知るすべを朝食をとりながら、決めたのだった。
業績あるいは行状をしるのに必要な資料をさがす方法について、開館早々の図書館でたずねた。
「できるだけ簡単なものからだんだん掘りさげて調べたいので、よろしくお願いします」頭をさげたのだ。
親切な館員さんで、しかも歴史に詳しいひとだったから助かった。
見つくろってくれた五冊を両手でかかえると、テーブル席を陣どった。
むかいのひとが、新聞をおおきくひろげてよんでいた。傍若無人な年よりだ。おかげで、となりにすわる子どもは、一層ちいさくなっていた。
ちかくに設けられた畳敷きのうえで、幼児がさわいでいるが、母親はあやそうとも、注意をしようともしない。
_五月蝿いなあ_とはおもったが、口にはださなかった。内弁慶のボクは、外では“借りてきたネコ”状態になる。しかしそのうち、あまり気にならなくなった。