その二、千利休(宗易)にたいする切腹命令と、そのあと首を曝しものにした史実。武将でもない利休が謀反をくわだてたとはかんがえづらい。
ならばなぜ?との疑義にたいしいくつか説はあるのだが、いまだだれも完璧には説明できないでいる。
既述の、秀次一族郎党の件も、おなじだ。ただ、まちがいないのは、秀吉の勘気にふれたということである。その勘気の根因がなんだったのか、日本史におけるかずあるナゾのひとつとなっていると母。
その三、キリシタン二十六人を処刑した。ほんとうの因はわからないが、禁教令に違反したその見せしめとされている。だが、これもナゾのひとつだ。
その四、二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)における大量殺戮。犠牲者は、推定十万余と。大量破壊兵器のない当時の戦では、未曽有といえる膨大な犠牲者をだした…。たったひとりの異常者が野望のため、尊い、これほどの人命を奪ったというのだ。さて、好戦説や領土拡張説など諸説があり、いまもってこれの動機を特定できないでいる、朝鮮李氏王朝との(我田引水的で一方的な)外交交渉の(必然の)失敗による朝鮮出兵だったのである。
それにしてもいきなり、属国になれといわれて、承知する国がどこにある!日本を支配下におさめた独裁者には、そんな道理もわからなくなっていたのだ、きっとと、母は切りすてた。
でもって、朝鮮半島制圧は、あくまでも通過点のつもりだった。秀吉の最終目標は、スペインとの連合軍で明国を支配することだったようだ。じじつならば、傲岸不遜の極みである。
いずれにしろ秀吉がいきた世はたしかに、戦国時代との呼称どおりの世紀であった。
裏切りや策略、背信と謀殺によって浮かびあがり栄えた門閥や一族が存在するいっぽう、謀られてほろびさった族親も数多(あまた)あった。