可能な限りの情報を得た和田は、書類を見ながら事件等を頭の中で整理し始めた。
まずは、下半身をも曝け出し放置された死体。異状はしかし、それだけではなかった。先述の、若きキャリア警部全裸絞殺体事件のことだ。左腕に一か所の刺創。解剖所見には、凶器は幅1ミリメートル強で片刃の薄く鋭利な刃物とある。カッターナイフとみて間違いないだろう。挿入の深さは最大値22ミリだった。これも剖検によるのだが、傷周辺に強い皮下出血が見られた。生体反応というやつで、生前につけられた刺創と断定している。
被害者が自ら刺したものでないことははっきりしていた。ロープに飛び散った血痕が付着しており、四肢緊縛以後の刺傷だとわかるからだ。
その刺創の部位、数、大きさから犯人に刺殺の意図がなかったことは明らかだ。この程度では血友病でない限り、失血死には至らない。事実、出血量自体たいしたことなかった。そして首には、凶器となったタオルが巻かれたまま残されていた。ホテルの備品であった。
ならば、左腕を刺した犯人の目的は何だったのか。生前の被害者をいたぶり苦しめるためだったのか?それにしては一か所だけである、少なすぎやしまいか。それでも仮に苦痛を与えるためだったとして、では果たしてただそれだけだったのか?和田には、犯人が何か別の意図を有していたように思えた。しかし今はそれに対し思索する時ではないとした。
調書を読み切り全体像を掌握しておいてもらいたいと、星野から先刻依頼されたからだ。ということは明日にでも、矢野係に難事件解決要請というお鉢が回ってくるに違いない。
そう予測しつつ先に進んだ。顔にはハンカチを掛けられていた。同期の警部補にその事実を教えられたとき違和感をもった。犯人が近親者の場合、死者の顔を見るに忍びない等の後悔や死者に対する憐憫、見苦しい死相を曝すのは可哀そうなどの同情で顔を覆うのだ。
しかし明らかにこの犯人の意図は違う。恥態を放置しただけでなく、サイトで醜態を公開したと考えられるからだ。犯人の二つの行動は、明らかに矛盾している。
三十三年生デカは、ついそう考えてしまう。ではなぜハンカチを被せたままにしたのか。犯人の意図は?この謎が気になって仕方がない。一方、矛盾するが犯人の単なる気まぐれとも、経験から思えるのだ。いくら計画犯行でも、重大犯罪を起こしウロがきた人間というやつは不可思議な行動をとってしまいがちである。しかもそれを覚えてもいない。逮捕後に不可解行動の理由を問うと首をひねられた、なんてことが何度かあったからだ。
気になりながらも読み進んだ。死体発見は犯行の翌日だったわけだが、発見が遅れたのは部屋のドア外側のノブに、“起こさないで”の札が掛けられていたからだ。さらに、「主人が、執筆に集中させろと申しております。それで、外からの電話も従業員さんの入室もご遠慮ください」との電話が、犯行直後とみられる四月十四日土曜日午後十一時に部屋からフロントに入っていた。ただし、受送話器部分から犯人の耳(じ)紋は出たが、DNAは出なかった。ハンカチか何かを被せていたから、唾液が残らなかったのだろう。
さて、死体発見当日となる翌日曜日の午前十一時少し前。外部からの電話でシーツ交換の依頼があった、それでハウスキーピングが入室し、廊下は言うに及ばず、隣の部屋にまで響く叫喚「ぎゃ…~」を発したのだった。で、110番通報とあいなった次第である。
死体発見から三時間後、司法解剖は完了した。日曜日だというのに異例の早さだった。身内意識というやつで死体になっても優遇?されたからか。執刀したのはO大学病院の法医学教室の准教授であった。死亡推定時刻は土曜日の午後十時から十一時までの一時間。
ちなみに、司法解剖より二時間半近く前に司法警察官による検視が行われていた。
結果は以下の通り。発現した死体硬直がピークにあった点から死後十二時間プラスマイナス一時間、死体体温(直腸内温度30℃)から死後十二時間プラスマイナス最大二時間、すでにかなり進んでいる[目の]角膜混濁具合から死後十時間以上経過、極点に達しつつある死斑の固定情況(血痕点在の位置に鑑み、死体の移動や体位の変更は考えにくい)から死後十二時間前後経過、死体の乾燥具合(眼瞼や口唇を覆っていたハンカチが通常の乾燥を少々遅らせたため通常より誤差が出やすい)と、刺傷の乾燥具合から死後十二時間プラスマイナス一・二時間等であった。
剖検と検視所見はおおよそ合致していたのである。また、死斑がより強く出ている点、眼瞼裏にうっ血があった点、射精していたこと等も両者はそれぞれの立場で示していた。
検視に当たった警部は、絞殺による窒息死として帳場を設けるよう進言したのである。
剖検でも同様、死因は絞殺による窒息だった。その解剖所見の概略内容。
1 首にはスポーツタオルが巻かれていたが、索条(頚部圧迫用の凶器)痕をほとんど確認できなかったことから生地の柔らかい同タオルで絞めたとした 2 絞殺だが舌骨や甲状軟骨に骨折はみられず。柔らかいタオル等が索条の場合、または被害者が若い場合には骨折しないことも充分にありうる現象だ 3 左腕の刺創…深さ、幅、生体反応あり等既述 4 死体所見…死後硬直や死斑等の状況、眼瞼裏のうっ血点も確認。既述した検視と同様の内容 5 死亡推定時刻…既述 6 胃の内容物…未消化の牛肉やポテト・人参等のこなれ具合から食後2~3時間(睡眠薬の薬効で胃の活動が鈍っていたとも考えられる) 7 睡眠薬が消化器からはごく微量、血液からも少量検出された。強い効果のゾルピデム(酒石酸ゾルピデム、商品名マイスリー)で、睡眠導入剤としては即効性短期作用型に入る。経口投与により、胃腸にて速やかに消化・吸収される性質。微量の検出だったのはその性質のためである。血漿中濃度が低かったのは、ゾルピデムの消失半減期が2.1から2.3時間であるため、経口後比較的速く減少してしまったからだ。ただし、服用時間が死亡推定時刻のどれくらい前か、その正確な時間は不明 8 その他の薬物は検出されず 9 血中アルコール濃度は0.15%。個人差はあるが酩酊初期と判断される。千鳥足になったり嘔吐の症状を出現させる人もいる。【このあとも捜査資料を読み進んだ和田は、ホテルマンへの事情聴取からもわかったこととして、被害者は介護されていた旨を知る。血中アルコール濃度から考え、睡眠導入剤がすでに影響していた可能性は高いと判断した】 10 精液以外の体液として唾液やバルトリン腺液等の女性器分泌液はペニスから検出されず【ゆえに性交渉がなかった、とは断定できない。コンドームを付けた状態でオーラル行為を終了させた可能性もあり、射精後に何らかの理由によりコンドームを持ち去ったとも考えられるからだ。遺留品にコンドームが含まれていないのは、その可能性もあるということ。持ち去った場合の理由だが、コンドーム表面に付着したDNAを検出できる唾液・バルトリン腺液を残したくなかったとも】 11 ただし、男性絞殺体においては、射精がみられることもある。比較すると若い男性に多く所見。
性交渉の有無については、どちらの可能性もあるということだ。
剖検を読んだ捜査員たちは当然、睡眠導入剤の入手経路もあたった。
被害者側から追った捜査員は楽だった。風邪以外での診察を受けていなかったからだ。当然、処方されていない。新妻も、夫が睡眠導入剤を服用した事実はなかったと証言した。
残るは犯人側からのアプローチだ。こちらはかなりの人員を当てた。だが、マイスリーは一般的であるため、処方した医師、あるいは薬局の特定には到らなかったのである。
ところで捜査の常道である訊きこみだが、捜査会議という一応の手続きを経て所轄の役回りとなった。“パシリ”扱いという、殺人や誘拐・人質立て籠もりなどの凶悪な事件で警視庁や道府県警本部が出張ってきたときにみられる、ありふれた、いつもの光景だった。
…各捜査員の動きを追うために、それでは時間をシフトするとしよう、まずは死体発見日の夕刻にだ。
履き古され、もはやくたびれたとしか表現できない革靴が発する弾まない足音を大理石仕様のロビーに鈍く響かせて、定年間近のデカが刑事になりたての新米を伴ってホテルのフロントに向かった。満を持して臨んでいることを、男の背中が雄弁に物語っている。それにしても、鬼瓦より迫力があり時代劇の悪役がうってつけのご面相のベテランは新米に、「お前は一言も口出しすな」と、タバコの害毒によるのか黒ずんだ唇に、おのれの節くれだった人差し指を真っ直ぐに立てて当てた。はてさて、威勢だけが取り柄のチンピラもビビる眼がすでに威嚇していたのだから、人差し指によるパフォーマンスは不要だったろう。
暫時ののち、死亡推定時刻に勤務していたフロントクラークと、ホテルが提供した部屋で挨拶もそこそこに机を挟んで座った。その間に、これも提供してくれた宿泊台帳のコピーに一瞥をくれた。見ておきたいと、事前に要望を伝えていたからだ。
早速、矢継ぎ早の質問が始まったのである。「チェックインのとき、女の顔、見ましたよね」デカはまず肝心の質問を投げかけた。迫力ある顔に似合わず、声は意外にソフトだった。「人物の特定に役立つような特徴とか、何でもいいです。覚えておいでではないですか」
問われて、「う~ん」フロントマンは思い出そうとしばし瞑目した。が、申し訳なさそうに首を横に振ると、「大きなつばの帽子に黒いサングラスをかけていらっしゃいました」客を安心させる、職歴十五年の誠実が宿った眼で刑事を見つめつつ、そう答えたのだった。
服装について、捜査会議にて防犯カメラ検索班からすでに得てはいた。それでも尋ねたのは、フロントではサングラスをはずしていたかもしれないと淡く期待したからだった。
――ああ、やっぱり――人相を伏せるために違いないが、たしかに、お偉方が疑ってる娼婦のいでたちと云えんでもない。けど、眠剤を飲ませて殺したんでは、これからの商売、あがったりや_このデカも、SM嬢の犯行とはどうしても思えない一人だった。
そんな憶測など、フロントマンは知る由もない。で、続けた。「そんなわけで顔の下半分しか見えませんでした」三十代後半の、正直者と誰もが感じる面差しがさらに、「髪の色も、帽子に全て収まっていたので…」役立っていないことを自責するようにポツリ告げた。
一方、デカは、協力的なホテルにも目の前のホテルマンに対してもありがたいと思った。
ただ地取りは芳しくなかった。見えていた部分で、大きなホクロやキズ・そばかす・その他目を引くような特徴はなかったというのが、デカが知りたがっている答えの、残念な内容であった。「見えた部分でいうと、鼻筋は通り唇は薄めで、それに色の白い人だなぁと」続けて、美人に見えたと言おうとしたが止めた。好み等の個人的意見でしかないと思ったからだ。それにしても接客業が身に沁みついているのか、観察眼はなかなかのものだった。
人相を隠していたのだから仕方ないが、残念なのは情報が、捜査を大きく前進させるほどではなく、心許ないが、似顔絵作りになら少しは役立つか、くらいだったことだ。
それでもこのあと、作製した似顔絵や同映像をテレビのニュースや新聞で公開した。
だがやはり、犯人に繋がる有力な情報は得られなかった。なかには、協力的な情報も含まれていたが、面白半分やかなりいい加減なものが大半であった。協力的な情報も、時間帯や場所、服装等が違っており、捜査陣は、結果的には踊らされた格好となったのである。
一方、帳場が秘かに期待した防犯カメラの映像解析からわかったこと、つまるところ、おおよその年齢と身長と体重及び推定体型、服装だけであった。
具体的には、二十代半ばから三十代前半、161cmプラスマイナス1㎝、50kgプラスマイナス3kg…これだけでは、人物の特定は困難ということだ。
ただ云えることは、動画撮影用カメラ・帽子・サングラスと睡眠導入剤・カッターナイフなどを用意している点、ありふれた遺留品等、どうみても計画犯行である。
よって当夜の服装だが、直後に着替えもし処分もしたであろう。さらには、以前から周囲に印象づけている服装で犯行に及ぶバカもいない。つまり、服装の線から捜査しても無駄足になるということだ。これは和田自身の経験的推測である。そして正しかった。
「ところで変な質問をしますが、本当に女性でしたか?」
訊かれた方は怪訝の眉根となった。
「おネエや女装趣味など、近頃はいろんな人がいて、それで一応」差別に繋がりかねないので少し言いにくそうに。ご面相からは、デリカシーの持ち主だと想像しにくいのだが。
「なるほど。ですが声も肩幅もそう、指や首の具合も、どう見ても女性でした」断言した。
それに対し、念のための質問でしかなかったので、鬼瓦の表情に変化はなかった。
一方、新米はというと、ただただメモをとるのに必死だった。
「あ、思い出しました、目の細かいレース地の白い手袋をされていました。覚えてはいたのですが、…こんなことには慣れていませんので、つい失念してしまいました」警察官からの訊きこみを受けるなど産まれて初めてのことであり、無理もなかった。
ところで手袋だが、指紋を残さないためだろう。ならば宿泊台帳、そして部屋からも指紋は出てこないに違いない。鬼瓦顔はそう思った。(事実、出なかったことは既述した)
「何度か泊まったことのある客だといいのですが」指紋を検出できず人相もわからない今回の事件に対し、長引きそうだと覚悟しながら問うた、不発に終わるだろうと予想しつつ。
「私の知る限り、初めてのお客様だったのではないかと」
「やはり」だが落胆はしなかった。「では、男性の方はどうでしたか?」
「来られた時、お顔が見える状態ではなかったので」
なぜか?とは、デカはこのときは保留し、府警本部の人事課が保存していた、被害者が生きていた時の制服姿の写真を見せた。
手にとって見たあと首を傾げながら、「こちらもやはり、初めてだと思います」と言った。
「では、防犯カメラの映像とこの写真、他の方にも見てもらえるよう、あなたからおっしゃっていただけますか。映像の方は、あとで僕が用意しておきますから」このまま手ぶらで引き下がるなんてできない。定年を来年に控えている割には、熱心なデカである。
フロントクラークは快く引き受けたのだった。ところで後日談だが、全てのフロントクラーク・ベルボーイ・ドアマンに見せたにもかかわらず、男女ともに見たことがないと言っていたと。ただし、ひとつだけ新たな情報を得た。別のフロントクラークからだった。
捜査の役に立つかどうかと賢(さか)しら口の前置きをし、「電話でのご予約のときの、“スイートルーム”の発音が米国語ふうでした」そう教えてくれたのだ。といって、ハ―フかクウォーター、またはアメリカ留学経験者等々だからとするのは早計だ。一言の発音でそんな憶測をするのは推理物の世界の話であって、実際の捜査ではあまり採用しない。捜査は基本的に、確実性に重きを置いているからだ。目撃証言よりも客観的な防犯カメラの映像を重要視するように、物証による科学捜査が主流なのである。
ここで鬼瓦は、本意でない質問をした。それは…、見当違いだと現場の人間としては思っているのだが、上の意向を無視はできないからだった。「失礼かとは存じますが、こちらのホテルに」と、ここで言葉を切ると首をゆっくり大きく回しあらためて内装に目をやった。さすが、市内北区でも一等地に屹立する高級ホテルだ、客室でもないのに絨毯も机も上物に見えた。退職後、こんなホテルに妻を連れてきて長年の労に報いたいと思いながら、「いわゆる娼婦は出入りしますか?」客の耳を心配しないで済むと安心しつつ尋ねたのだ。
「そんな商売の人は」大胆なミニスカートに胸元の大きくあいた服装とけばけばしい化粧を想像しながら「気が引けるのか、見かけたことはありません」首を横に振った。「ですが、普通の方と同じような服装や化粧でもって」ホテルの顔といわれるフロントクラークだけに、娼婦についての表現も婉曲的だった。「そのままお部屋の方に行かれた場合、私どもといたしましては、…把握しかねます。この点、ベルボーイやドアマンも同じだろうと。それにですね」と、ホテル利用者の目的だが、宿泊以外にも多種多様であると説明した。
「ゴージャスな食事やラウンジで夜景を楽しむ等々。なるほど」肯くと、「では質問を変えます。その女性の言葉はどうでした?関西なまりだったとか、です」
「言葉少なだったので…、それでもニュアンス的には関西の方ではなかったかと」
続いてさきほど引っ掛かった点の質問をした。「男性の顔が見える状態ではなかったとおっしゃいましたが、それはどうしてですか?」所轄とはいえ、有力情報を引き出し、デカとして捜査会議で良いところを見せたいと。これは人情である。
被害者は、チェックインした女性客とタクシー運転手に両肩を担がれて運び込まれたとのこと。「『医者をお呼びしましょうか?』との申し出には、『それには及びません。酔いと睡魔のせいですから、部屋で寝かせれば明朝には元気になるでしょう』とのご返答でした」
返事の間もデカの習性で相手の眼を見続けていたが、おもむろに宿泊台帳のコピーに視線を移し「チェックインは女性の名前で17時半とありますが、飛込みですか」と問うた。
フロントクラークはコピーを一瞥すると、「いえ、ご予約の欄に“T”とございますので、お電話だったのではないかと」即答した。
「チェックインのとき、被害者は?」ネットで予約しなかったのは、足がつくからだと。
「いえ、お一人でした」
「女性が先にひとりで、ですか…」殺害すると狙いを定めた警部用の、誰にも見られない現場確保のためになした行動。やはりそうだったのだ。「それで荷物は?」
「たしか…、ハンドバッグとキャリーバッグでした」どちらも、映像解析から量産品だと知ることになる。
その中にロープやガムテープ・カッターナイフ等々を忍ばせていたのだろう。
「帰宿時の持ち物は?」特に意味はないが捜査会議で突っ込まれたときのために、被害者を伴った時間帯の手荷物を確認しておきたかったのだ。
「ハンドバッグのみでした」
被害者の様子から、予め液体状にした睡眠薬など外で要るものはハンドバッグに入れておいたと推測した。
「で、支払いを済ませましたか」可能性はゼロに近いが確認しないわけにはいかなかった。万が一クレジットカードでならば――そんなドジは踏んでないやろうけど――身分がわかる。あるいは現金払いだったとして、その紙幣が残されていれば指紋を検出できるのではないかと、淡い期待を懐いての質問だった。犯行日以前のことだが、財布に紙幣を入れたときは手袋をしていなかった可能性が高く、そのときに指紋を付けたとの期待であった。
「いえ、未払いです」初めて不愉快そうな表情で短く答えた。受けた損害を考えると当然だ。部屋は当分の間使えないし、血痕付着の絨毯なども新調しなければならないからだ。
このベテラン、ちょっぴり残念そうな表情のまま、次の問いを発した。どうやらわかりやすい性格のようだ。「22時から23時にかけて、両隣や真下の部屋などから、フロントに苦情は来ませんでしたか?もめごととか床に何かが落ちた時に発する大きな音や声の」
「いえ」明確に否定した。「こう申し上げてはなんですが、犯行があった22階という階層だと、まずそういったトラブル類はありません」一泊約十万円を支払う階層の人間に、他者といらぬ争いごとをする者はいない、そう言いたかったのだ。「あれば記憶に残ります」
品格のない輩がこのホテルに泊まるとしたら暴力団の幹部クラスだろう。だが立場上、チンピラ然の振舞いでは恰好がワルい。だから素人相手にもめ事を起こすようなマネはまずしない。そういう点では場所柄をわきまえている連中だと、ベテランもわかっていた。
それにだ、被害者は睡眠薬を飲まされ猿ぐつわまでされていたのだから、犯人との間にトラブルがあったとは考えにくい。ただし左腕を刺されたとき、丸害が叫び声を発した可能性はある。だがそれを両隣の客は聞いていないか、聞いても大したことではないと判断し、フロントに電話しなかっただけかもしれない。あるいは、すでに猿ぐつわをされていたから発し得なかったとも。これは計画犯罪である。よって後者であろうと、これは和田。
「何か思い出されましたら」と、携帯番号を書いたメモを渡しながら、「こちらに連絡ください」殊勝に頭を下げた。
この所作も鬼瓦には似合わなかった。新米は、こみあげてきた可笑しみを懸命に堪えた。
調書の、フロントへの訊きこみまでを読み終えた和田は、背筋を伸ばし首を左右に何度か回し肩を上下させた。固まりかけた体をほぐすとタバコに火を点けた。
一服の間に、犯行当夜の両隣と向かいの部屋さらに真下の客に今夜、電話をかけようと決めた。殺人があったと思われる時間帯とその少し前に異常な声を聞いていないか確かめるためだ。それと…、ひょっとしたらサングラスをはずした女性の顔を見ているかもしれない。だが、当時の捜査員がそれを訊きこんでないとは考えづらい。それでもあえて捜査員が失念したとしよう。ではあっても、一年半も前の記憶が当てになるとも思えなかった。
とはいえ、矢野係として僅かな不明点や可能性を放置することなどできるはずがない。
ゆえの十時間後だった。しかしだ、やはり宿泊客の、誰一人として叫びなどの異常な声を聞いてはいなかった。ましてや、顔を見た人などいなかったのである。
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