物的確証の入手。しかしそのためにはまず、東が盗んだくるまを見つけださねばならない。
すでに、和田警部補にはたのんでおいた。だが、捜索範囲が漠然としすぎている。くわえて、おもった以上に難航したのは、矢野が推察したとおり、軽トラの盗難届がだされていなかったためだ。
通常、盗難犯にすれば、たかく売れる高級車をねらうから、当たり前のはなし、軽トラが盗難されることはまれなのだ。
そこが捜査側の狙いめである。被害じたいがほぼないのだから。もし出されていれば、和田にすればすぐに気づいたはずである。
でもって、盗難届をだしていない被害者の身になってみた。以前は、こう憶測した。裕福な農家で、しかも廃車寸前だから、めんどうな手続きをわずらわしいとかんがえたのだろうと。
その農家じたいに重大な異変がおき、被害届どころではなくなった、というようなちがう可能性もあることは承知している。だが、そうだと、もはや雲をつかむような状況となり、捜索範囲のせばめようがない。
そこで、以前の仮説をおしすすめることにした。「可能性はゼロではない」からだ。捜査難航のばあい、矢野が捜査方針をかえるため、発想の転換をしたときにも、つい発してしまう言葉である。
しぜん、両方のゆびの腹をかるくくっつけたその格好のまま、唇におしあてた。まるで、祈っているかのように。これが、矢野が思考を集中させるときの、いつもの姿なのだ。
やがて、突飛にもおもえる理由があたまに浮かんだのである。このさらなる仮説こそ正着(囲碁での適切な手、転じて、正しい読み)だ、との幸運に賭けるしかなかった。

夜のあけるのが、これほどに待ち遠しいとは。
矢野は和田に、朝のあいさつもそこそこに、じぶんのおもいつきを話し、その線で、裕福な農家をさがさせることにした。
すぐに小会議がひらかれ、かれらはそれぞれのエリアを分担すると、矢野をふくむ七人はちらばっていった。で、離散、集合をくりかえした三日目、矢野の憶測が正着だったことが証明されたのである。
盗難されたくるまのもち主は、鉄道の駅にほどちかい、裕福な農家だった。土地売却で億単位の所得があったのだ。
盗難届をださなかったのは、手続きがめんどうも理由のひとつではあったが、それ以上に、ぬすまれてから三週間ほどがたったある朝、返却されていたことにもよった。
さて、不届けの理由だが、突飛ともおもえる矢野の正着、つまり、くるまが返却されていたから。は、並大抵で発想できるしろものではない。卓越した推理力のたまものである。
ついで、凶悪犯罪者の東が返却したその理由にも、矢野にはそこそこ自信があった。
幸運に賭けたけっか、探しだせた盗難車。そのもとに依頼をうけ、やってきた鑑識員がふたり。警部の推測(まだ、推理といえるほどの論理性はない)、つまり幸運がつづけば、犯人と特定できるほどの物証を発見できるかもときいたこのふたりは、おっとり刀で(さっそく)仕事にとりかかったのである。
矢野たちは固唾をのむようにして、ただ待つしかなかった。
さても、起訴できるだけの物証だが、はたして見つけられるであろうか。

「遺留指紋、それと、まだおちているかもしれない犯人の遺留品で、指紋かDNAを採取できるものがあれば、みつけてほしい」
そうはいわれたもののしかし、都合よくいくかどうか。いくら、警視庁一敏腕な警部の指示でもと、鑑識課員は心底ではいぶかっていた。
がともかくも、ひとりは車体にのこされた指紋…こちらは推定どおり徒労におわるが。で、もうひとりは遺留品をと、ふたりが手分けしての二十数分。さて、
「あっ、これでしょうか!」もうひとりが、甲高いこえで矢野をよんだ。
もうひとりの手元を凝視していた矢野は、待ってましたと、よびごえにすっ飛んでいった。そこで、目に映ったものは一本の、か細く頼りなさげなかみの毛であった。
ほんとうに欲しかったのは、盗難以降の日付けが印字されているコンビニのレシートだった。やつの指紋を期待できるからだ。
とはいうものの、かみの毛の色が黒かったので、希望的推測が具現化した、歓喜の瞬間ではあった。どうじに一抹の不安が脳内をよぎった。はたして犯人の遺留物か?ということだ。不安、それにつきる。
ただ、みつけた場所に期待がもてた。運転席の表面ではなく、背もたれとのスキマで、座部やや裏側にちかい部分に、髪はくっついていた。だからだ。
座席のしたの床におちていたわけではなく、イスにくっついていたのは、静電気の影響をうけたせいではないか。盗難の時期が冬ならばこそ、静電気が矢野たちに味方してくれた可能性はたかい。
ぎゃくに、東にとって不利だったのは、頭すっほりのニット帽をかぶってはいなかったことだ。
まあ、やつにすれば人相の隠しやすい野球帽を、証言によれば使用していたらしく、それで、えりあし付近の頭髪がおちたのだろうと。座席と背もたれのかみの毛ならば、粘着テープにくっつけて、慎重な東ならばもちさったにちがいない。
だが、入念に探さなければ見つけられない部だったこと。さらには、警察の無能ぶりをあざ笑っていたぶん、やつに油断があったのかもしれない。
攻守かわり、矢野たちの幸運。発見部もだが、なににもまして、農家の所有者がほぼ白髪で五分刈りの老人だったことだ。
遺留品とは、色も長さもちがっていたのである。東の現状をみしっているわけではないが、目撃者たちの証言では、やつは五分刈りではない。陸自時代は超短髪だったとして、それよりも三センチ以上は長くなっていた。退職してから、髪をのばしたようだ。